ゲシュタルト   転生パラレル


 ゲシュタルト心理学、というものがある、ようだ。
 物事を個ではなく全体を見て解する、という趣旨の心理学ではないか、というのが、この30分ざっとテキストに眼を通した三成の判断である。
 例えば、音楽。人は、特定の音楽のある音符単体と、異なる音楽の同音を聞き分けることなど出来ないが、ある特定の音楽のキーの高低を操作してもなお、旋律を理解することは出来る。これを、ゲシュタルトと呼ぶ、ようだ。
 別の例を挙げよう。
 例えば、描画。人は、眼や鼻といった単体のパーツからそれが誰のものか見分けることが難しいが、一方で、点や丸のみで表現されたものであっても、その位置や関係からそれが何を表したものであるか認識することが出来る。根底にあるものを汲み取る力を持っている。それを、ゲシュタルトと言う、らしい。
 おそらく。
 三成は混乱をきたした脳内を整理するため、本をテーブルの上に戻した。
 生粋の理系人間である三成にとって、人の精神の機微はあまり興味の湧く分野ではない。有と無、すなわち1か0の織り成す単純で穏当で秩序だった世界こそが、三成の好むところである。実際、白黒はっきりした方が生きる上で簡単で良いと思うのだが、それを何故、文系人間は好き好んで、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて曖昧にするのだろうか。空気を読む、行間を読む。全く馬鹿げた行為だ。
 三成は眉間に寄ったしわを解しながら、眼前で可笑しそうに笑いながら濡れ髪をタオルで乾かしている女を一瞥した。この女こそが、三成の人生に曖昧や混乱といった灰色をもたらし、のみならず、不条理で満たそうとしている元凶である。女の氏名は知らない。三成も己のものは知らせていない。これから知らせ合う機会も、果たして、あるかどうか。
 三成と女が会ったのは、つい先ほどのことである。
 駅前のコンビニで、新聞を購入がてら缶コーヒーも確保した三成は、ふと、ボストンバックを抱きしめて座り込む存在に気付き、眉をひそめた。夜の帳が落ちた街は、存外、暗い。俯き加減の顔こそ見えないものの、細いシルエットが女であることを知らせていた。あまりにも不用心なその様子と小奇麗な恰好に、浮浪者とも思えず、まさか未成年ではないだろうかと三成が懸念を募らせていると、顔を俯かせていた人物と目があった。
 このようなことを口にすれば笑われるかもしれないが、気付けば、誘う言葉が口を吐いていた。ナンパしたら付いてきた、と言えば些か酷薄に聞こえるかもしれない。だが、実際のところはそうなのだから、取り繕ったところで無駄だろう。
 女は多少なりとも、驚いたようだった。見知らぬ男にホテルへ誘われたのだから、当然の反応だろう。しかし、性欲の欠片もない、と同僚に呆れられる三成の淡白な態度に、女は安心したらしい。女にとって都合の悪いことに、今日は、年に一度の観光行事で宿泊施設が満員の日だった。地元の人間であればそれと知っているし、わざわざ足を運ぶ輩もそれと知っているにもかかわらず、女がそれを知らなかったのは、人身事故で電車が不通になり、足止めを食らったせいだ。そのために、女は宿泊施設の確保を願うならばこれくらいの不都合は仕方ない、と腹をくくったのかもしれない。一切不安を覗かせることはなしに、三成の提案に乗ってきた。
 それでも、相手は男だ。「女」として少しくらい懸念を募らせるのが、一般的な反応だろう。だが、三成の後を付いてくる女の足取りには迷いがなかった。道中交わした会話によれば、女は度々海外へ足を運ぶ学者の卵だという。普段は都内の大学で事務員も兼務する卒業生らしい。だから、決して、世俗慣れしていないわけではない。かつかつと後ろを付いてくる踵の高い靴の音に、三成はかえって己の方が臆するかとも思ったが、意外と動揺することもなく、ホテルの部屋へ辿り着いた。
 最初から下心があったのかと問われれば、言葉を濁すしかない。堅実こそが信念の三成には、正体不明の女と一夜限りの関係を結ぶという危険を冒すつもりはなかった。加えて、そこまで切羽詰まっていたわけでもないはずだ。それでも、こうして推して図るに、なかったということはないのだろう。でなければ、これほどまでに、緊張するはずもない。
 ルームサービスで食事を済ませた今、密室に女と二人きりである。あどけなさと達観の同居する奇妙に分別臭い態度で、女は頬杖をつき、三成へ笑いかけた。
 「お風呂を貸してくれてありがとう。」
 三成の知らない口調で女が言う。
 「それに、食事まで。お陰で、とても助かったわ。」
 その多少媚びるような眼差しには、挑むような奇矯こそあるが、やはり不安の色は見えない。
 僅かに上向いた長い睫毛、淡い琥珀色に輝く虹彩。珊瑚色をした柔らかな唇に、透き通るような白肌。海外では貴重だから、という理由でカラーリングの施されていない黒髪。
 十人中七人が振り返るような艶めかしい美貌を具えてはいるものの、言ってしまえば「ただそれだけ」の女が、何故こんなにも三成の心を捉えるのか。解りかけている事実が、こんなにも三成を混沌の渦へと突き落とす。
 以前も今も、灰色など、三成が一番厭うものであったはずだった。いたく眼障りで、疎んでは遠ざけた混乱を招き寄せる行為など、愚行に過ぎぬはずだと己に言い聞かせても、根深く燻ぶる好奇がどうにも抑えられなかった。さながら、誘蛾灯に魅せられ燃え尽きる蛾の気分だ、と自嘲が浮かんでは消えた。
 「待っている間に読んでいたみたいだけど、私の本は気に入った?」
 三成の不躾な眼差しを真っ向から見つめ返し、大きな眼を弓なりに細めて女が笑った。丁寧に整えられた爪先がテーブルを叩いて、三成へ返答を促す。
 小さく、咽喉が鳴った。
 顔の造形も、性別も、何もかもが違う。何処にも、「過去」を彷彿とさせる部分は存在しない。にもかかわらず、三成には女から感じ取るものがあった。魂、と言えるようなものが。
 それとも、運命、だろうか。
 女の問いに答えず、三成は手を伸ばした。まだしっとりと濡れている頬に掌を添え、僅かに顔を上向かせると、初めて女の眼に逡巡が浮かんだ。そして、驚愕も。
 まさか、気付かれるはずがないとでも思っていたのか。
 例え幾ら見目が変じていようとも、あれほど恋うた存在を、三成が見逃すはずがないではないか。何故、こうなるまで放っておいたのか。その気がないならば、逃げれば良かったものを。尤も、逃げる素振りを見せれば簡単にこの手から逃したのかは、今となっては確約出来ないが。
 一条の、眼が眩むほどの光。惹きつけて止まない、哀しみを湛えた闇。反する色に苛まれ、足掻き、その姿で三成の眼を捉えて離さなかった灰色。死に別れて白黒(モノクロ)に戻ったはずの世界が、また、こうして不条理で不毛なものへと変貌を遂げていく。そうして、再び、世界が色を取り戻していく。ちかちかと瞼を刺し、心へ射す極彩を帯びたものへと。
 頬から顎を伝い滑らせた手の中の細頸が、こくり、と緊張に上下した。このまま殺めて、自分だけのものにしてしまおうか。以前の三成ならば躊躇せず実行したであろう欲望を見逃して、更に、掌を下方へと滑らせていく。
 かつて、三成の生きた時代には、うつけと呼ばれる男が居た。彼は悪し様にうつけと紡ぐ舌たちに、後年、天才と讃えさせた。昂揚と狂気も然り、だ。振り切れば、堕ちる。それらは紙一重の代物だと、三成は知っている。
 みつな、と女が隠しきれない動揺を孕んだ声を放った。三成は自然と緩む口端をそれと気付かれぬ内に、抵抗ごと呑みこむ口付けをした。
 紡ぎかけた制止が、その名が、何を意味するか。はたして、女は知っていたのだろうか。











初掲載 2012年7月2日