小太郎は身分格差など、疾うに取り払われたと思っていた。
男女の格差も埋められつつある昨今である。アメリカの自由な気質の影響を変な風に受けている感もないではないが、女性が社会に進出し、政治家としても名を上げるようになった時代である。慎ましやかで夫と家を陰ながら支えることが美徳とされた風潮は、消え去って久しい。あの炎と灰と死とで彩られた戦争ですら、忘れることはできないものの、深い記憶の底へ落ちてしまって日常生活の中で思い出すことは少なくなった。徹底的に破壊しつくされた街は復興し、今では、あの阿鼻叫喚が繰り広げられた地獄絵図の舞台としての街の記憶は、雑踏の中に埋もれてしまって掘り起こされることは無きに等しい。
なにぶん小太郎が生まれる前のことなので、人伝に聞いたことと授業で聞きかじったことだけが頼りではあるが、この国で貴族制廃止されたのは確かなことらしい。実際、廃止されて後も旧華族旧士族商人農民との間では拭いきれない格差意識が残されていたようだが、それも、大戦とそれに続く混乱期、闇市場の生み出した成金たちによって消え去ったのだと、小太郎は信じていた。
小太郎は戦争孤児という身分だが、そのことを今まで気にかけたことはなかった。戦争孤児など、小太郎の知り合いには沢山居る。佐助やかすがやいつきや蘭丸がそうだ。実際、あの混乱を極めた戦争でそのような孤児が大勢発生したのは確かな事実だった。その上、小太郎は幸運にも学校へ行かせてもらっている。先に挙げた4人もそれぞれ確かな後見を得て、こうして学校へ行かせてもらえている。教育が義務とされても、孤児である小太郎たちは何もせず食べ物にありつけるような身分でもなかった。生きるためには働かねばならなかった。その労働の代わりに教育を宛がわれるような身分の孤児はそう多くなく、ゆえに、小太郎が嬉しくないはずがなかった。確かに世の人が悪し様に言うよう、孤児という一点に関して言えば人の善意に縋る身であることに変わりはないが、身を削って働くことも悪行に手を染めることもせずに済むのだ。だから、今まで小太郎は己のことを不幸だとも思ったことはなかったし、身分を必要以上に気にかけたこともなかった。
そんな小太郎が身分を気にするようになったのは、好いた人ができたからだ。
伊達政宗というのが小太郎の好いた人の名である。珍しい名ではあるが、女性だ。才色兼備の名に相応しく、容姿に秀でただけではなく、ゲーテを原書で読み、また武道も粗方段を得ているという才女である。未だ貴族制が敷かれていた頃、進学率は僅か1%足らずでまさにエリートのための教育現場であった。その当時、独逸語ができるのは当たり前、むしろできねばならぬ時代ではあったというが、現在のこの国においてこの能力は稀なことである。独逸語どころか、英語ですら話すのがままならないのが現状だ。
このような時代で政宗がそのようなエリート教育を受けて育ったのは、ひとえに、身分のためだ。伊達家はそもそも武家として名を馳せていたが、貴族制が廃止されると同時に引き渡された財産を元手に事業を始めた。それは当時、商売に関してはてんで知識のなかった武家の辿るありきたりな道ではあったが、伊達家がその他の武家と一線を画したのは、商才があり事業に成功した点であろう。他の武家が軒並み倒れていく中、伊達家は急成長し事業を拡大させ、武家であった時以上にますます名を挙げることとなった。しかしそれが元でやっかみを受け、伊達家は失脚することとなる。どこにも詳細が残されていないため憶測するより他ないが、伏せられ闇に葬られるような外聞の悪いことがあったとされたのだろう。伊達家は一時歴史から名を消すこととなった。だが、何が禍となり福と転ずるかわからぬもので、歴史から名を消していたがゆえに、伊達家は戦後再び台頭してくることとなる。戦時中はアメリカに渡り事業を手広く行い成功していただけに、GHQの覚えも良かった。
そして現在、伊達家は総理大臣こそ輩出していないものの、影で政界を牛耳っていると言っても過言ではない影響力を保持する名家となっている。その、一人娘が政宗なのだ。小太郎がどう足掻いたところで手も足も出ないとは、まさに政宗のことを指すのだろう。才色兼備で、家柄も良い。頑張ってはいるものの学業はそこそこで、見目はいたって普通、平凡すぎてあき足りない点が多い小太郎である。どう考えても、相応しくない。
そこまで思い至ると、小太郎は展望のない希望にそっと溜め息を吐き、思考を遮断するのであった。
小太郎は上履きを脱ぎ椅子の上に立ち、教室のカーテンを取り外しにかかっていた。在籍する学校も学期が終ろうとしている。学期終わりと春秋にそれぞれ1回、合計年5回の学校の大掃除は、小太郎たち生徒の仕事であった。小太郎のすぐ隣では、政宗が小太郎の取り外したカーテンから一つ一つ丁寧に金具を外していた。普段気に留めないカーテンの汚れも、まとめて重ねてしまうと非常に目立った。
「なあ、小太郎。」
小太郎はいったん手を止め、後ろを振り返った。
「お前、卒業したらどうするんだ?大学に行くのか?」
俯きがちに政宗はカーテンの金具を外しながら、そう尋ねた。手を休めていた小太郎は黙々と仕事をし続けている政宗の様子に、再びカーテンを取り外しながら首を左右に振って否定した。養い親の北条は大学に行っても良いと言っているが、そこまで甘えられるような小太郎でもない。そもそも小中学校のみならず高校にまで行かせてもらえただけでも、僥倖だと思っていた。働くつもりだった。
「そっか…働くのか。」
小太郎の態度に察したのか政宗は一瞬小太郎の顔を見止め、小さく呟くと再び金具を睨んだ。少しの沈黙。その沈黙は常の温かな居心地の良い類ではなく、どこか重苦しい雰囲気を孕んでいた。
「…なあ、だったら俺のところで働かないか?まだ、俺は大学もあるから、一緒に働くのは四年後になると思うけど。」
沈黙を破るかのように提案した政宗に、小太郎は真意を問うため視線を向けた。まさか一時の情に流される政宗でもない。確かに戦争孤児であるいつきを拾い、部下として育てつつ幼なじみとして共に時間を過ごしている実績があるが、政宗が情ゆえにいつきを拾ったのはずいぶん昔のことだと聞く。
小太郎はそれほどいつきと仲が良いという訳ではないため、情報通の佐助から聞いた話になるが、戦争孤児だったいつきは最初両親の知り合いの農家に引き取られた。戦後当初、農家は国全体が食糧難ということもあり、持てはやされた。何より、食糧は国から配給される上、自らでも米や野菜といった食糧を育てていることが農家の強みであったのだろう。また都市部から流れてくる人々も、地方にとっては大きな収入の一つであった。いつきの地元も都市部から流れてきた人間相手に、ずいぶんと儲けたと言う。しかし配給制がなくなり農地改革が行われると、農家は一変して貧困に喘がざるをえなくなった。地方の農家は果樹栽培や野菜作り、あるいは内職的な仕事で生活費を工面したが、以前のような生活はとうてい見込めなかった。中には、新規事業に手を出し失敗するような農家も、少なくなかった。
食い扶持を減らすためまず初めに捨てられたのは、戦争孤児であるいつきだった。そんないつきに目をかけたのが、政宗だった。ゆえに、いつきは政宗のことを感謝しても感謝しきれぬほど心酔しているわけだが、政宗が小太郎に声をかける必然性は見当たらなかった。小太郎は高校を卒業したからといって、捨てられる訳ではない。その上、小太郎は自らがそれほど出来の良い方ではないという自覚がある。至って普通の、あまりにも平凡すぎるようなつまらない男だ。首を傾げる小太郎に、政宗は続けた。
「俺、小太郎と離れたくないな。」
直接告げられた願望に思わず小太郎は手を止め、政宗を見つめた。政宗は未だに金具を外し続けていたが、どうやらそれも気恥ずかしさを紛らわすための行動であるらしいことが鈍い小太郎にも読めてきた。形の良い耳はほんのり赤かった。小太郎は困ってしまった。小太郎の思い違いでなければ、どうやら己は政宗から好意を抱かれているらしい。しかし歴然たる身分違いという溝が、二人の間には横たわっているのである。いや、今それを出すのは尚早な話かもしれないが、何にせよ小太郎には政宗の好意に応えるだけの自信がなかった。しょせん、自分はどこまでいっても平凡な男だという変な自負があった。
そのような結論を混乱した脳内でまとめあげていた小太郎は、取り外したカーテンが手をすり抜けて自らの上に覆いかぶさってきたことに気付かなかった。驚きの余り手の方が疎かになっていたようである。
突如襲いかかった白い視界と埃臭さに、それまで以上に混乱を刺激され慌てる小太郎を救い出したのは、政宗だった。白い視界が面の部分だけ拓け、そこから政宗の秀麗な顔が覗いていた。カーテンから浮き立ったらしい埃が薄っすらと宙を舞い、梅雨時の六月にしては珍しい陽光を反射して煌いていた。
「大丈夫か?」
微かに笑いの滲んだ声に現状を悟り、小太郎は頬が熱くなった。間抜けな自分が恥ずかしかった。恥ずかしさにカーテンに埋もれるように身を縮こませ俯く小太郎に、政宗は楽しそうに笑った。
「何つーか、花嫁みたいだな。」
確かに白いカーテンを頭から被った姿は、見ようによっては花嫁に見えなくもない。しかしこれほどまでに埃塗れの花嫁というものも、珍しいだろう。
「…June brideか。」
政宗は感慨深そうにそう呟き、小太郎を見つめた。思いの外優しい眼差しに出会い動揺する小太郎の頭を、政宗は勢いよく撫でた。予想もしなかった行動に思わず目を瞑る合間に、政宗が腰をかがめて顔を近づけたことには気付かなかった。
「幸せになれよ。」
唇に触れた柔らかさを実感する間も無く、そっと囁かれた言葉に小太郎が驚きの余り瞬きしていると、政宗は苦笑めいた笑みを浮かべ離れた。カーテンの前面が白魚のような指で下方へ引っ張られ、小太郎の視界は再び白く塗り潰された。
「いい返事、待ってるから。」
だから小太郎は、そのとき政宗がどのような顔をしていたのか、知らなかった。
「…小太郎くん、なして地べたに座り込んでるだか?体調でも悪いんか?」
雑巾を縁に引っ掛けたばけつ片手に教室に駆け込んできたいつきは、床に座り込んでいる小太郎を見止め首を傾げた。用事のあった政宗の姿が見当たらないのが気になるが、それ以上に気になるのは、なぜか小太郎…と思しき男子学生がカーテンを頭から被っていることだった。埃塗れのカーテンを好き好んで身に纏っているとは考えられないが、何らかの事故によって被ってしまったものをそのまま放置し続けているとも思えなかった。
もしかして寝ているのだろうかといつきが腰をかがめ覗き込むと、小太郎はなぜか慌てたように立ち上がった。挙動不審だ。思わず眉をひそめるいつきに、小太郎は何事も心配することはないとでもいうように首を左右に力強く振ったが、それがかえって怪しさを増した。
「本当に大丈夫だか?」
しきりに頷く小太郎に不審の眼差しを向けたまま、いつきはしぶしぶ了承することにした。本人が何でもないと言っているのであれば、いつきが気にすることでもないだろう。いつきは本題に入ることとした。
「なあ、政宗知んねえか?」
「…っ!」
その問いかけに小太郎が激しく動揺し盛大に転び、再びカーテンを頭から引っ被り、更にいつきの不審を煽ることとなるのだった。
初掲載 2007年5月16日