かわたれの街 / 勝田文   学生パラレル


 無言で小銭を差し出す。生協のおばちゃんは慣れた様子でそのお金を受け取ると、小太郎へカレーパンを受け渡した。小太郎がいっさい口を利かないのは、この学校ではそこそこ有名な話なのである。小さな街の小さな公立学校だ。それも当然かもしれない。
 小太郎はカレーパンを手に、教室の扉を抜けた。
 入り口に一番近い席の生徒たちがいないため、入って初めに目に付くのは真ん中の列の最後尾の、どこかどんよりと澱んだ空気である。また弁当作りに失敗したのだろう。己のことではないけれど小太郎は悲しくなってしまって、眉尻を下げた。幼なじみの政は料理に対して熱意はあるし、その熱意もみんな認めるのだが、どうもそれが空回るのが、政なのである。小太郎は幼なじみとして、そんな政の様子をずっと見てきた。
 小太郎は一つ嘆息し、政の肩越しに弁当箱を覗き込んだ。鼻をつく、えもいわれぬ異臭。弁当箱の中心では、黄土色の不確かなかたまりが我が物顔で居座っていた。いったい、何を作ろうとしたのだろう。
 ここまで来るとこの料理おんちも一種の才能だと思うのだが、もちろん、小太郎はそんなことは言わないし、言えない。政が眦を吊り上げて怒るのが目に見えているからである。そして言ったが最後、小太郎は、怒った政に腰の入った重い拳をもらうのだろう。可愛らしい見た目に反して、政はありとあらゆる格闘技を極めているのである。その拳は凶器に等しい。いっそ格闘選手になれば良いのではないかと周囲は言うのだが、得意なことと好きなことが重ならないのが、現実の皮肉というものだろう。料理以外は何でも達人級の腕前なのに、残念なことである。
 しかし。
 小太郎はしょげきっている政の後姿を見つめた。
 小太郎としては、それが決して明るい展望の一切望めないことであっても、大好きな政の夢であるのならどこまでも応援したいのである。豆腐屋に育った政の夢は、豆腐料理店を開くことだった。育ての親である豆腐屋店主の片倉小十郎に、少しでも楽をさせてやりたいというのがその夢の理由だった。
 「………。お前、何買ったんだ、小太郎…。」
 背後に立つ小太郎に気付いたらしい政が、決して良いとは言えない顔色で振り仰いだ。そして政の問いかける視線に、小太郎はいつも通り無言で、生協で購入した120円のカレーパンを持ち上げて答えを示すのだった。
 5分後。
 「カレーパンってうまいよなあ。」
 政はカレーパンを食べていた。
 そして。
 「うわ。こたろくん、今日もまつりに弁当もらったんだべか?」
 屋上でさっさと食事をすませてきたらしい同じクラスのいつきが、どこか呆れたような棒読み口調で、政の代わりに例の何か得体の知れないシロモノを突いている小太郎に問いかけたので、小太郎は力いっぱい頷いた。長い前髪の合間から覗く目には、あまりの不味さに涙が浮かんでいた。
 よく漫画やドラマで見かけるが、塩と砂糖を素で間違えるのが政なのである。その上分量も間違えることが多く、それらはうっかりやどじという単語で説明しえないほど、いっそわざとやっているのではないかと疑りたくなるほどの頻度で発生するのだった。
 今回もいつもどおりの調理が行われたらしいことを察したいつきは、憐みの眼差しで小太郎に言った。
 「そんなに不味いなら、残せばいいべよ…。いっつも思うけんども。」
 小太郎は首を左右に振った。
 いつきの言葉はもっともだったが、それでも、もしかして政は自分のことが好きなんじゃないかと夢を見られる昼食時が、小太郎は何よりも好きだった。その幸せが、120円のカレーパンで得られるのならば安いものである。
 昼代の他にも、もう一つ、切実な問題があったが。


 春から夏にさしかかろうとしている今の時期は、夕方の5時を過ぎでも空が驚くほど明るい。自然、遊び盛りの高校生ということもあって、寄り道もしがちになってしまう。
 しかし小太郎は政をデートに誘いたいのを我慢して、家に誘った。それをデートだと認識しているのは小太郎だけだとかそういう話は別にするとして。ともかく。それは決して小太郎が、むさくるしい男所帯を政に見せたいというわけではなかった。小太郎の家は呉服屋を営んでいるのだが、政のことを実の孫のように可愛がっている祖父が、政に古い帯を贈りたいから帰りに呼ぶよう小太郎に指示していたのだった。
 小太郎の誘いに、政は両手を顔の前で合わせて謝った。
 「悪ィ、明日じゃ駄目か?これから料理教室なんだ。」
 政の返事に小太郎は大丈夫と頷き返しながらも、一抹の寂しさを隠しきれなかった。料理教室に通い始めてからというもの、政があまり構ってくれないためである。何でも格好良い先生がいるとかで、近所のおばちゃんたちはこぞってその料理教室に通っているのだが、政もその中の一人であった。
 一度政にその先生の写真を見せてもらったことがあるが、いかにも軽薄そうなあの優男のどこが良いのか、小太郎にはさっぱりわからなかった。もちろん、そんなことを言えば周囲には嫉妬だとからかわれるだろうし、政には怒られるだろうというのは容易に見当がついていたので、小太郎はその感想を人にもらしたことはない。ただ、ライバルの名前と容姿を忘れないよう心に刻み込むだけだった。ライバルの名は、猿飛佐助という。
 あの猿飛佐助とかいう男の料理教室を目前に控え、嬉しそうな様子が隠しきれない政の顔を、小太郎はしごく残念そうに見つめた。それから学生鞄をあさり、兼ねてから渡そうと思っていたキーホルダーを取り出した。赤い紐に鈴と可愛らしいだるまのつけられたキーホルダーである。
 「良縁祈願の姫だるまじゃねえか!」
 目を輝かせて言う政に小太郎が姫だるまを差し出すと、政は一も二もなく受け取った。
 「さすがは俺の竹馬の友!よくわかってんじゃねえか!頑張るな!」
 小太郎は曖昧に頷いた。政が他人に抱く恋の支援なんて、幼い頃から政を想い続けている小太郎にしてみれば、本当はしたくない。しかし動機はどうあれ、もう少し料理の腕を上げてもらいたいものだと、小太郎は昼を食べてからいつも通り痛む胃を押さえて思うのだった。
 これが深刻にして最大の、政お手製のお弁当を食べた際に発生する、もう一つの問題なのである。











初掲載 2007年5月8日