「政ちゃん、小太郎のヤツだけど。」
ふいに振られた話題に、今度発売する推理小説のカバー挿画案に目を通していた伊達政は、スケッチブックから顔を上げた。
「何?小太郎がどうかしたのか?」
小太郎こと風魔小太郎は、現在政が手にしているスケッチブックの持ち主、猿飛佐助の従兄弟だ。佐助と同じ美術大学を出たが、そつなくイラスト事務所に就職した佐助と異なり、五年前までフリーターをしていた。画力自体は申し分なく、スクラッチや日本画をやらせてみても繊細で緻密な仕事をやる。しかし、今時風の絵を描けないのと、無口すぎて事務所の面接でもそれを押し通したのが悪かった。無口が難をもたらしたのは、それだけではない。個人でイラストレイターの仕事をしていくには、無口で交渉下手というのはあまりにも不利だった。
そういう事情で、イラスト関係の仕事の求職をしつつも実際はフリーターをしていた小太郎が、政の勤める大手会社の仕事を任されるようになったのは、政が佐助に見せられた小太郎の絵を一目見て気に入ったからだった。確かにライトノベルに向いている画風ではない。しかしそれでも十分元が取れるに違いない、と政は踏んだ。
そうして、佐助を通して仕事を持ちかけたのが五年前。今となっては、小太郎は、翻訳本や幻想小説や童話のイラストにおいて、右に出る者のいない存在になっている。
「あいつ今、挿絵付きの童話任されてるじゃない。」
「ああ。」
先月出した画集の売れ行きも好調で、昨年末に大々的に開いた個展の方も好評だった。その流れに乗って、一つ、ここは新たな境地を開拓してみないか、と政は童話の作成を提案してみたのだった。
もともと小太郎がもともとは物語を描きたくてこの世界を志したことを、政は佐助から聞いて知っていた。それだけではなく、二年前から政自身も、小太郎が仕事の片手間にスケッチブックに何か物語らしきものを綴っていることに気付いていた。
だから上層部の許可を取りつけ、「やってみないか?」と誘いをかけたとき、小太郎以上に政も興奮して、その完成を楽しみに待っていた。
「何か、行き詰まってるみたいなんだよね。この前遊びに行ってみたらさ。だから、今日辺り様子見に行ってみてくんない?締め切りとかゴタゴタしてて、最近行けてなかったみたいだし。」
「そうだな。」
本当はまだ、締め切りを破った作家からの取立てや、その影響によるイラストレイターや製版所に対する謝罪やお願い、広告掲載内容の訂正など、仕事が立て込んでいる。
それでも、政は佐助の言葉に了承した。仕事の進行状況も気になったが、それ以上に、小太郎の様子を見たかったのだ。生活力が皆無な小太郎は放置されていると何をしでかすかわかったものではなかった。前回二ヵ月出張や締め切りで会いに行かなかったとき、小太郎が栄養失調で床に倒れていたのを思い出して、何故今回は一ヶ月半も様子を見に行かなかったのだろう、と政は顔をしかめた。
政はスケッチブックの三枚目と五枚目の案に丸をつけて、とりあえずこの類似で何パターンか着色したものを提示してくれるように、佐助に頼んだ。
「それから作家に、最終的にはどれが良いか訊くから。」
「ん。りょーかいです。あ。これ小太郎んちの鍵ね。盗むもんもないし、俺様が了承してんだし、チャイム鳴らしても出ないなら勝手に入っちゃって。」
「…それは良いのか?モラル的に。」
「いいのいいの。だって、栄養失調でまた倒れてて、下手して死んでたりしてたら元も子もないじゃない。」
どうやら政と同じ過去を思い浮かべていたらしい佐助の返答に、政は苦笑すると、大きな仕事鞄を持ち上げて、小太郎の住むアパートへ向かうことにした。
後ろではひらひらと、佐助が何故か満面の笑みで手を振って、政を送り出していた。
『むかし、ひとりの王女さまがおりました。』
梅雨入りをしたものの雨が降らないので非常に蒸し暑い部屋で、小太郎は原稿用紙と睨めっこしていた。
話も思いつかないが、それ以上に、なかなか出だしが思いつかない。試しに書き始めてみれば何か良い案が思いつくかもしれないと思い、一文書いてみた後、その文をしばらく見詰めてから、小太郎は思いなおしたように消しゴムで消して書き直した。従兄弟の佐助がこの前来たとき、何だったら試しに自分のことを書いてみたらどうかと提案していたのを思い出したのだ。
『むかし、ひとりの絵描きがおりました。』
その物語は、そうして始まることとなった。
むかし、ひとりの絵描きがおりました。絵描きは絵を描く才能にこそ恵まれていたものの、それを表わす方法も、口にする勇気も、宣伝する手腕も持っていませんでした。
絵描きには、同じく絵描きをなりわいとする弟がおりました。弟は絵を描く才能があるだけでなく、それを表わす方法も、口にする勇気も、宣伝する手腕もじゅうぶんに持っていたので、仕事にことかくことはありませんでした。また弟は甘いマスクの持ち主でおしゃべりも上手かったので、弟のアトリエはいつもきれいな娘たちであふれかえっておりました。
ある日、いつまでたっても仕事のない兄をふびんに思い、弟はひとつ仕事を代わりにやってみないかと持ちかけました。それはある姫さまの肖像画を描く仕事でした。兄はそんな大仕事は自分には身にあまると言いましたが、弟の熱心なすすめに負ける形で、ついには承諾してしまいました。
この姫さまはたいそう器量がよく、また頭もとてもよいと近隣諸国でも有名なかたでした。どんな腕のある絵描きがどれだけ丹精こめて描こうとも、とてもそのすばらしさを表現できないようなかたでしたので、多くの絵描きが肖像画の仕事を請けおってはみたものの、失敗して自ら去っていくのでした。そういうわけでいつまでたっても姫さまの肖像画はできず、姫さまをこの上なく愛している王さまは、誰でもいいから姫さまの肖像画を手がけられるものはいないものか、と毎日のようにおおぜいの絵描きを呼んでは絵を描かせているのでした。
その日、招かれたおおぜいの絵描きの中に、あの兄の姿がありました。兄はひと目見てすっかり姫さまのうつくしさに心を奪われてしまいました。それは他の絵描きたちも同じでした。中には、絵を描けもしないのに、姫さまめあてでわざわざ訪れたものもいるくらいでした。そうして、初めのうちは姫さまのうつくしさを表現しようと、恋心の突き動かすままに姫さまの姿を描き始めるのですが、どれだけ描いても、姫さまの神々しいまでのうつくしさには届きそうもありません。ひとり、またひとりと、絵描きたちは諦めて城を去っていくのでした。
そんな中、最後まで城に残り絵筆をとり続けていたのは、兄でした。ひとりだけ諦めもせずスケッチを続ける兄の姿に興味をひかれて、それまでつんとすました様子でポーズを取っていた姫さまは、兄に話しかけてみました。
「あなたはいつまでたっても諦めようとしないで、絵を描き続けるのね。そういう人って、あなたが初めてだわ。」
返事がないので、最初、姫さまは自分のあまりのうつくしさに兄が照れているのかと思いました。それから自分の姿をスケッチしている兄の真剣な様子を見て、どうやら集中しすぎて声が聞こえていないらしいことがわかりましたので、姫さまは口をつぐんで姿勢を正しました。
しかし、ずっとじっとしていられるような姫さまでもありませんでした。もともと姫さまは男まさりの勝気な性格で、乗馬や狩りや、はては剣までたしなむような方でしたので、きゅうくつなドレスを着こんで椅子に座りこんでいるのは性にあわなかったのです。
「ねえ。あなたはいつまでたっても諦めないし、あなたが望むならわたしもいつまでもこうしていてもいいけれど、少し休憩にしない?だってふたりきりで、あなたが諦めないかぎり時間はまだまだあるんだもの。それに、私は明日も明後日も同じドレスで同じポーズを取るから、あなたが諦めないかぎり毎日来て、続きを描いたらいいわ。」
姫さまが辛抱強く話しかけると、ようやく兄は話しかけられていることに気付いて、こくりと頷きました。その日はお茶をして、またしばらく絵を描いてから、兄は家に帰ったのでした。
二日目も三日目も、だいたい、そのようにしてすぎていきました。絵描きたちがどんどん諦めて去っていく中、兄は着実に作業を進めていきました。毎日一日の半分をふたりきりですごすうちに、姫さまはすっかりこの絵描きのことが気に入ってしまいました。姫さまのまわりには、年ごろの男といえばそれまで、ご機嫌とりの言葉を並べたてたり、愛の言葉をささやいたりする貴族たちしかおりませんでしたが、兄はたいそう無口でまた実直な男だったので、それもまた気にいった原因のひとつでした。
それから数週間がすぎました。
兄がいまだに姫さまの絵を描くために城に通い続けていることを知っていた弟は、兄はとても絵の才能に恵まれているばかりでなく、とても真面目で辛抱強いことを知っていたので、こうなるのは当然だろうと思っていました。しかし、ひとつだけ大きな誤算がありました。それは、まるで女性に興味のなかった朴念仁の兄が、姫さまに恋をしていたことでした。たしかに、いろいろな人が美しい姫さまに恋こがれている事実を弟は知っていましたが、兄にかんしてはそれもきゆうだと、念頭から除外していたのでした。
絵はあと半月もすれば、描き終わってしまいます。そうすれば、とても身分が違いましたので、ただのしがない絵描きでしかない兄が姫さまに会いに行くなど、どれだけ願おうともできはしないのでした。弟はじぶんの招いた事態だけに、とても兄のことをふびんに思って、いっそ姫さまに想いをうち明けてみてはどうかと言いました。
王さまは姫さまに相応しいものを夫に迎えようと探しておりましたが、とてもそんな存在はいない上に、王さまは姫さまにとても甘いので、姫さまが望めばたとえ身分が天と地ほど違おうとも結婚を許すだろう、というのが弟の考えでした。
しかし兄は弟の提案に首を左右にふりました。
仕事のない兄には、プロポーズのための指輪を買うお金すらなかったのです。
政がチャイムを鳴らしても小太郎は出てこなかった。しかし出不精の小太郎が外出しているとも思えない上に、出かけているよりも栄養失調で倒れている確率の方が高かったので、政は佐助にもらった合鍵を用いてアパートに入った。
小太郎は作業台の上でうつ伏せになって寝ていた。外では雨が降り始め、先ほどまでの蒸し暑さが嘘のように寒くなっている。政はいまだに開けっ放しの窓を閉め、雨に濡れた床を拭いてから、寝ている小太郎にブランケットをかけてやった。
「あ。やってんじゃねえか。」
ふと作業台の上に原稿用紙が載っているのを発見して、政はしわにならないように小太郎の腕の下からそっと引き抜いた。佐助は行き詰っていると言っていたが、一見したかぎりでは順調に進んでいるようである。
政はダイニングの椅子に腰掛け、物語を読み始めた。
目覚めた小太郎は肩にブランケットがかけられているのに気づいた。誰か来たのだろうか。合鍵を持っているのは、アパートの管理人の北条と従兄弟の佐助だ。北条は老人会の旅行に行って留守にしている。佐助が来たのだろうかと寝起きの頭でぼんやり小太郎が思っていると、ふと、腕の下で敷いたまま寝てしまったはずの原稿が、ダイニングのテーブルの上に丁寧に置かれているのを発見した。どうやら訪問者は、小太郎が試しに書いていた物語を、目ざとく見つけて読んでしまったらしい。
恥ずかしい勝手なことを書いていた自覚がある小太郎は、一気に顔を赤く染めて、慌てて原稿へと近付いた。そして、自分が書いていた原稿の下に、添削用の黒ペンで新しい原稿用紙に続きの物語が書かれていることに気づいた。
兄を本当にふびんに思った弟は、兄の代わりに自分が行動を起こすことに決めました。
ある日、弟は姫さまに会いに行きました。兄と違って弟は名の売れた画家でしたので、王さまはすぐさま姫さまに会わせてくれたのでした。
「あなたが寄こしてくれたお兄さんだけど、とてもいいかたね。」
姫さまはそう言って、にっこり笑いました。当事者が気づかないことは、注意深く様子をうかがってやろうと思っている外部の人間には、たいてい、すぐさまわかるものです。弟は姫さまがどうやら兄に好意を持っているらしいことにすぐさま気づきましたので、これは絶対兄のためにも自分が頑張らなくてはいけないと思ったのでした。
「姫さま。ところで姫さまは、兄が描いている絵をご覧になりましたか?」
姫さまは、あれだけ毎日のように描かれながら一度も見たことがなかったので、そのように正直に答えました。
「兄ははずかしがり屋なので、おそらく肖像画は、完成するまで姫さまの目に触れないようにするでしょう。」
「そうね。わたしもそんな気がしていたわ。」
「姫さまは、ご自分がどのように描かれているのか、知りたくはありませんか?」
そう言われてしまえば、姫さまも気になっていたのでいいえとは言えません。しかし並々ならぬ好奇心は抱いていても、人一倍の分別もまた持ちあわせていた姫さまは、はっきりと返事をすることができませんでした。
弟はそんな姫さまの心情がよくわかっていましたので、このように言いました。
「兄はきっと作業室の隠し棚に、姫さまの絵を隠していることでしょう。鍵をここに置いていきますから、気になったならご覧になってごらんなさい。後になってから悔やんでみても、どうにもならないことというのが、世の中には往々としてあるものなのです。」
そう言って、姫さまに隠し棚の鍵を手渡すのでした。
弟の言葉が気になった姫さまは、ある日、兄が帰るととうとう隠し棚の鍵を使って、隠された絵を見てしまったのでした。姫さまははっとして、息がつまったようになりました。なぜなら、絵には兄の姫さまに対する愛情がみちていたからです。
びっくりした姫さまはその日のうちに、弟の絵描きを城に呼びよせました。すると弟が知ったような顔でどうだったか尋ねるので、姫さまは怒ったようなふりをして答えました。
「なんてことはなかったわ。だって、わたしはうつくしくて賢くて、誰もがあこがれるお姫さまですものね。あれくらいふつうよ。」
「しかし姫さまのような、弓も引けば剣も握るようなおてんばを、見かけだけでなく内面まで知ったうえで、あれだけ見事に描ききりつつ愛するようなものずきも、そうそういないのではないですか。」
弟のまったく言うとおりでした。これまで姫さまに言いよってきた貴族たちは見た目ばかりに目を奪われて、姫さまの賢さにはまったく気づこうとはしないのでした。そのものたちはみな恋心ゆえに、頭がぼーっとのぼせ上がっているのでした。召使や騎士の中には姫さまの賢さに気づいたものもおりましたが、彼らは総じて、姫さまのカリスマのとりこになるのでした。なので、中には姫さまが結婚してもいいと思うような心のりっぱなものもおりましたが、そういうものは恋に落ちたような状態ではあるものの、それは見かけだけの話で実は恋ではないことを、賢い姫さまはじゅうぶんすぎるほど知っていたのでした。
「あなたはわたしに何をさせたいの?」
率直に尋ねた姫さまの問いに、弟は
ふいに大きな音が鳴り響き、小太郎はびくりと肩を震わせてから、名残惜しそうに原稿を一瞥した後、めったに使用されないアパートに備えつき電話を手に取った。
「あ。小太郎?俺俺。元気に生きてるかー?」
一瞬、オレオレ詐欺だったということにして受話器を切りたい思いに駆られたが、最初にこちらの名前を言われているだけにそうすることもできず、小太郎は小さく嘆息した。従兄弟の佐助からの電話だった。
「その様子じゃ生きてるみたいだな。実はさ、さっき政ちゃんから連絡があったんだけど、」
佐助がそう言って告げた内容に、小太郎ははっとして原稿用紙を手に取ると、慌てて読み終えていない部分へと目を通したのだった。
「あなたはわたしに何をさせたいの?」
率直に尋ねた姫さまの問いに、弟はこれまた率直に答えました。弟の返答に姫さましばらく考えてから、仲のよい女友達を誘って、街におしのびで買物に出かけることにしたのでした。おてんばの姫さまは、そういうことをよくやるのでした。
翌日、何も知らない兄の絵描きが姫さまの肖像画の続きを描くために作業室へ訪れると、誰かが棚から絵を取り出した形跡がありました。しかし、この部屋の鍵は王さまと兄しか持っていません。まさか実の弟がこっそり合鍵をつくって姫さまに渡していることを知らない兄は、きっと王さまが見たのだろうと思いました。
午後になり、いつも姫さまと兄が休憩をとる時間になりました。姫さまは言いました。
「実は、わたし。あなたに打ちあけたい大切なことがあるの。」
それは何だろうと兄は不思議に思いました。絵描きの自分が姫さまから打ちあけられるような秘密など、見当もつかなかったからです。姫さまはどこからともなく小さな箱を取り出して、テーブルの上にのせました。
「わたし、今からあなたにプロポーズをするから、よかったら受けてもらえないかしら。返事の論点は、わたしを愛しているかいないかだけにしぼってちょうだい。身分とかお金とか、そういうほかの問題を出してこないでね。出してきてごたごた言うようだったら、わたし、とても怒るわよ。」
ピンポーンと間抜けな音を立ててチャイムが鳴ったので、小太郎は意を決して玄関へと向かった。
「絵描きさん。あなたはわたしと結婚してくださる?」
初掲載 2007年6月28日