こびりつく妄執を丹念に削ぎ落とした。しがみつく遺恨を真摯に殺いで回った。
霧と立ち込め滴り落ちそうなほどの暗闇の中、政宗は蝋燭の火に照らされた室内を見つめていた。其の部屋は、妄執がこもっている。枷で繋がれているわけではない。だが、蛾を誘う灯の如く、獲物を捉えて放さぬ情念があった。まるで、麗しき座敷牢のような場所だ。
政宗はかつて一度だけ、母に手を引かれて通された部屋を思い出す。そして、母に放すまいとあまりに強く手を握られ、かえって不安に駆られたことをも思い出し、政宗は緩く頭を振った。否、あれは放すまいとしたのではない、逃がすまいとしたのだ。政宗は其れが正しいことを知っている。母は、政宗を厭い、閉ざそうとした。現実も、目も、娘の命すらも閉ざそうとしたのだ。
血の如く紅い唇が甘言を漏らし、白魚の如き母の指が甘く己の咽喉にかかった。其の残像が、左目に、城に、周囲に焼きついて離れない。
政宗は己の中に闇が根ざしていることを知っている。其の闇は、病んだ右目に深く息づくものでもある。闇に蝕まれたからこそ、病んだのかもしれぬ。小十郎によって削がれた其れを庭に埋めた後、政宗は闇に眼帯という蓋をした。もう目に触れぬように、閉ざしたのだ。母のように。
項垂れる政宗の白い項に、解れた髪が一筋かかった。長襦袢一枚の姿は、死に装束のようにも見える。政宗は何事か紡ぐように、紅の刷かれた唇を小さく開いた。しかし、諦めたように口を閉ざし、一時、間を開けてから、後ろを仰いだ。予想に違わず、其処には忍びが立っている。政宗は灯りを床に置き、ゆっくり男へ向き合った。
「なあ、全部殺いだ先には何が残ると思う?」
男は答えない。政宗は意に介した風もなく、男へかいなを伸ばした。握られた手を引き、男を抱き寄せると、男からは死肉の臭気がした。鋼の如く鍛え抜かれた身体は、しなやかな筋肉に覆われている。政宗は其れを指で撫ぜた後、男の背にかいなを回し、宥めるように囁いた。
「俺が知らないと思ったのか?お前の殺し方は的確で特徴的すぎるのに。無駄がなさすぎんだよ。You see?」
そうして、男の咽喉仏に舌を這わせると、政宗は男に口付けを強請った。
気に入りの忍びは、人知れず息絶えた。好敵手と見定めた鬼は、蹂躙された。松永の元へ向かった右目は、そのまま帰らなかった。両手は切り落とされ、物言わぬ姿で発見された。一人、一人と命を消していき、そうして此の国には、死人を治める王以外、誰も居らなくなった。荒れ果てた城に、かつての栄華を見ることは出来ない。
噛み付くように唇を重ねると、政宗はもう黙っておれなかった。はは、と笑い声が口をついた。
「Ah――、」
吐こうとした言葉すら、思い出せない。咽喉が焼け付いたように熱い。とうとう、堪えきれず政宗は声を立てて嗤い出した。誰をかは知らぬ。何をかも知らぬ。ただ、何もかもが虚ろで、可笑しかった。
「お前のことを、この俺が、知らないとでも?俺を見るお前の視線に、俺が気付かないとでも?余計なものを削ぎ取ったお前は、此の上もなく綺麗な生き物なのに。――そうさ、お前はこの俺が生んだ化け物だ。」
己への妄執しか宿さぬ哀れな此の男の魂は、きっと遠くない未来、地獄へ堕ちるだろう。其の事実に、政宗の胎に暗い喜悦が込み上げてきた。政宗は無邪気に笑って、男に身を寄せた。
衣擦れの音が届く。己が荒く息を吐いているのがわかる。男の触れた箇所から火がつき、熱くなる。そうであるのに、心が褪めていく。其のことが、どうしようもなく神経に障る。政宗は男の前髪へと手を伸ばし、頭頂部へ撫で付けるように押さえた。男の眼は暗い情欲に濡れている。之ではどれだけ求めようとも飢えは充ちぬだろう。貪欲に求め、貪欲に溜め込み続け、醜悪な化け物に成り果てた己だからわかる。愛情とはそういうものだ。人を狂わす悲しい毒だ。政宗は他人事のような素振りで口端を吊り上げ、男のかつての名を呼ぶ。
「なあ、…隼人。」
父を殺いだ。弟を殺いだ。そして、母を削いで、独りきりになった。それでも、政宗の身の回りには剥がれぬ呪詛が立ち込めていた。右目、両手、城、国。至る所が、母を思い返させるもので溢れている。誰もが政宗の闇を知っている。知らぬ振りをしているだけだ。其れは逸話と名を変え、今も至る所で毒を垂れ流している。政宗には其れが辛抱ならなかった。
「お前の得意は、頚だったな?」
大事なただ一つのものすら削いだ魂は、虚ろだろうか。それとも純粋なものへと昇華を果たすのか。政宗は一つ目を細めて、男へ笑いかけた。煙の臭いがする。来る際、入り口にかけた火が回り始めたのだ。之で、此の城は消え去り、国も滅びる。それでも、まだ一つ、残っている。
物言わぬ口が音にならぬ声を漏らし、無骨な指が甘く己の頚にかかった。霞んでゆく意識の中、政宗は花のような笑みをこぼした。
こびりつく妄執を丹念に削ぎ落とした。しがみつく遺恨を真摯に殺いで回った。
此の欠落を充足するものは、決して、愛情ではない。ただ一つ、終焉である。
初掲載 2009年6月12日