小十郎の幼き主にして伊達家嫡子の梵天丸が、痘瘡を患ったのが半年前のことである。まず命はあるまい、と医者に処方された病を見事乗り切った嫡子に、家臣一同喜んだのも束の間のことだった。嫡子が病床にあっては手を握り涙を流して看病にあたっていた慈母が、己譲りの麗しい見目を損なった、ただそれだけの理由で、長子を疎い、二子小次郎に肩入れするようになったのだ。
義姫が初めて嫡子の見舞いに小次郎を伴ったのは、梵天丸が峠を越えてから三日後のことだった。それまで日陰の存在であった小次郎の肩に手を添えて、嫡子の病床であるというのに、ころころと鈴のように笑う義姫に違和を覚えたものは多く、実際、小十郎のその一人だった。以来、夢と現を彷徨う梵天丸の前で、義姫が小次郎を可愛がることが続き、十日も経つ頃には、訪問自体がぱたりと絶えてしまった。既に頭角を示し始めていた梵天丸派のものは少なくなく、それらのものは、口々に義姫の心変わりを嘆いた。その嘆きが怒りに取って代わるのもそう時間はかからず、実家最上家の指示に従い、義姫が小次郎を次期当主に推すに至っては、家中は慣習におもねる小次郎派とあくまで才気を見出す梵天丸派、二つに分断されることとなった。
もしかすると、義姫の本心は別にあったのかもしれない。女だてら戦場に立つほど苛烈な母が嫡子に抱く心など、人の親になった経験のない小十郎にわからないのも道理である。しかし真偽のほどは別として、実母の一挙一動に傷つけられた梵天丸が心身ともに内へ籠もるようになり、その世話を担う小十郎や乳母、喜多の労が加増したのは事実であった。
無論、小十郎や喜多、そして梵天丸の同窓にして従兄弟である時宗丸も無為に過ごしていたわけではない。
とりわけ、血の繋がりこそないものの、梵天丸を実の子のように愛でていた喜多の涙ぐましい努力は痛ましかった。梵天丸のために徹夜で着物を誂え、好物の料理を拵える姿は、今にして思えば、乳母でしかない己が実母にとって変わりたかったのだろう。そこまで、梵天丸にひたむきに愛されたかったのだろう。だが、本意はともあれ、そこに含まれる愛情は紛うことなき本物であった。
時宗丸も、従兄弟に少しでも笑顔を取り戻せないものかと、以前にも増して、馬鹿や無茶を仕出かすようになった。梵天丸の寝付く部屋から見える、物見櫓ほどはあろうかという高い木の枝に登り、幸せであった頃の夢にまどろんでいる梵天丸に手を振りながら呼びかけることも多々あった。木の葉や鳥の羽をそこかしこにつけ、木の枝や皮で擦り剥いた肌を晒した状態では、後で血相を変えた実父に怒られることがわかっているだろうに、時宗丸はめげず、天辺を目指した。時宗丸は、梵天丸に勇気を示したかったのだろう。辛い現実を乗り切る胆力を分け与えようとしたのかもしれない。
そのような最中、小十郎は、死んだように布団に蹲る梵天丸の傍へ控えながら、母に厭われようと独りではないのだと、私たち家臣一同がいるのだと無言で語りかけ、小さな主が己を取り戻すのを待っていた。梵天丸や時宗丸より十年嵩であった小十郎は、時宗丸のように天真爛漫に振舞うには些かとうが経ち、分別がつきすぎていた。そして、姉のように愛情を傾けるには、梵天丸との付き合いが短かった。二人が梵天丸と戯れていた頃、次期当主を守るため、武術や戦術の稽古に明け暮れていたのだから、それも致し方あるまい。小十郎はあくまでも守役としての立場から、梵天丸の再起を願い続けた。
あくる日のことである。水差しを取りに行った小十郎が戻ってみると、梵天丸が布団から抜け出し、小さな手を障子にかけて食い入るように外を見つめていた。春めいた風に誘われたのだろう。あの、ころころと鈴の音のような笑い声を立てて、義姫が小次郎と庭を散策していた。真っ赤に色付いた小次郎の頬はつやつやと幸せに輝いている。
対する、梵天丸の方はどうであろう。
「母上は、梵のことが嫌いなのだな。」
元々白く肌理細やかな肌は、日の当たらぬ関係で以前より白い。それをいっそう白くして、母を慕う梵天丸を見ていると、小十郎はやるせなさに胸が詰まり、苦しくなった。ここで否定できたらどれほど良かっただろう。だが、良くも悪くも、小十郎は実直な男だった。返す言葉を見つけられず唇を噛む守役に、梵天丸はひっそりと花のように微笑んだ。
「…馬鹿なことを言った。流せ。」
こんな風に笑うくらいならば、笑わないでくれた方がましだ。小十郎は口を一文字に引き伸ばし、静かに、主に対して頭を垂れた。己の無力が無念でならず、心の奥底に苦味が広がった。
小十郎が、時宗丸にも負けず劣らず馬鹿をしてみせるようになったのは、それからのことである。梵天丸に笑顔を取り戻すためならば、小十郎はいかなる汚辱も厭わなかった。泥に塗れて野菜を掘り返し、まるで農夫のようだと貶されても全く意に介さなかった。それよりも、その野菜が姉の手によって生まれ変わり、梵天丸の口に運ばれるのかと思うと、胸が喜びで満たされるのだった。そのため、ふと、自分でも何か梵天丸様のために育ててみようかと思い立ったのは、小十郎にしてみれば、至って自然な流れに相違なく、以前梵天丸が興味を持っていた外つ国のものを育てる気になったのは、必然であった。
勿論、小十郎もこのような試みは初めてであったので、難しいものを育てるつもりはなかった。小十郎は、外つ国の司祭から、みんとという名の薬草を分けてもらい、農夫から貰った肥やしにそれを植えつけた。司祭が太鼓判を押したとおり、小さな種は見事に根付き、見る間に、畑代わりの小鉢を緑で埋め尽くした。
薬草ならば、梵天丸様のお身体にもきっと良いに違いない。そう思いながら、この日を心待ちにしていた小十郎は、実際のみんとを知らなかったのだ。
冷気すら感じる強い芳香は、それまで、小十郎が経験したことのない類だった。恐る恐る葉をもいで噛んでみると、口いっぱいに香り同様の辛味が広がり、小十郎はあれほど愛情を傾けて育てたみんとにもかかわらず、思わず吐いてしまいそうになった。どうも虫が寄らない植物だとは思っていたが、寄らないわけである。これでは、梵天丸様に出すことなどできない。しかし、心血を注いだみんとである。小十郎は無碍に枯らすこともできず、庭の隅にひっそりと植え替えると、後はみんとの自生力に任せることにした。
小十郎がミントを見棄てた三日後のことである。姉と被るだろうが、こうなれば何か良い案でもないものか、神官をやっている父に文でも出そうとしていた小十郎に、入り口から躊躇いがちに声がかけられた。その声に、小十郎は目を見開いて、戸に駆け寄った。そこには、初めて自ら殻を抜け出た梵天丸が立っていた。
一瞬、一体何があったのか判断に苦しんだ小十郎も、梵天丸がまとう空気に何があったのか悟った。つんと胸に来る香りは、三日前、小十郎が見棄てた薬草のものではないか。言葉をなくして驚く守役に、幼き主は手に持っていた伴天連の菓子を差し出した。
「疲れには糖が良いと聞いた。」
天辺と脇には、ミントの葉が飾られている。こう言っては難だが、門外漢の小十郎にも、その菓子が、梵天丸が悪戦苦闘の末に作り上げたものであることが知れる出来栄えだった。梵天丸はその出来が恥ずかしいのか、脇に添えられたミントを摘むと、尖らせていた口に放り込んだ。
「この辛さが良いのだ。」
やはり辛かったのか、未だ険しい表情で、梵天丸が呆気に取られている小十郎を見上げる。
「梵は、このお陰で目が覚めた。もう、小十郎らに心配はかけない。これで気づけなかったら、何のための、主か。」
眼が涙に潤んでいるのは、何も、ミントの辛さばかりのせいではない。それがわかるからこそ、小十郎の胸も自然と熱くなった。
「梵は、梵だ。」
そうして、梵天丸は一転満面の晴れやかな笑みを浮かべると、小十郎にぎゅっと抱きついた。
「お前たちのために尽くすと誓う。」
この体は幼く、柔らかく、たちまち手折れてしまえそうだ。言ったことで張り詰めていた精神が切れたのか、堰切ったように泣きじゃくる梵天丸の背中を梳きながら、小十郎はこの無二の主に永遠の忠を誓った。
あれから、十数年が経った。
「小十郎、今日はpastaにしようぜ!」
麦藁で編まれた駕籠を手にぱたぱた走り寄る声に、小十郎は顔を上げた。汗がつうと流れ落ちるのを手拭いで拭い、主に笑いかける。
「バジル…ですか。トマトも良い頃合です。」
「Good!久しぶりに腕を振るってやるよ。成実は勝手に来んだろ。喜多や綱元も呼ぼうぜ。」
そう言ってからから笑う政宗――かつての梵天丸――にあの頃の影はない。小十郎は主の提案に頷きながら、駕籠から溢れ出しそうなハーブたちに目を落とした。
あのことが切欠で、政宗は料理やハーブ菜園に精を出すようになった。一方の小十郎は、以前から興味のあった畑に場所を移して、政宗の為に野菜を育てる日々である。
あれから、十数年が経った。だが、忘れようとして忘れられるものではない。目を輝かせて、今宵の夜食に使う野菜が収穫されるのを見守っている政宗に、小十郎はかつて苦味を覚えた胸に熱いものが込み上げるのを感じた。
心に撒かれた種は芽吹き、今まさに、咲き乱れている。
初掲載 2009年7月24日