今日はバレンタインだ。もうすぐ、それも過去形になる。
(ようやく今日が、過ぎるのか。)
政宗はきっちり締めたネクタイを緩め、心の底から安堵の息を吐いた。
チョコレート業界にとって年のうちで最も重要な日ではあるが、西洋菓子、とりわけチョコレートが嫌いな政宗にとっては苦痛を象徴する日でしかない。国内最大手のチョコレート取り扱い会社の跡取りがこれで良いのだろうか。
(まあ、よくはねえだろうな。)
政宗は自嘲しつつ愛車を狭いアパートの契約駐車場に乗り入れると、2階を目指した。
2階建てのアパートには当然エレベーターなどというものは付いていない。地球温暖化の影響で今年はかつてない暖冬だというが、やはり一歩進むごとに夜の寒さが身にしみた。
政宗は冷え切った手をロングコートから片手だけ抜き出し、アパートのチャイムを鳴らした。
「お疲れさまー、開いてるから入ってきちゃって。」
佐助が大家の了解を取り取り付けた安物のインターホンは、音が決して良いとはいえない。それでも雑音交じりの佐助の声の後ろで、何か大きな物音がするのを政宗の耳は捉えた。
政宗は首を傾げた。
安普請のアパートは音がよく響く。大家に怒られるといけないから、と佐助はそれこそ政宗が「お前、前世ninjaなんじゃねえの?」とからかうくらい神妙なほど静かに暮らしているはずだった。
しかしぼーっと扉の前で突っ立っていても仕方がない。これから判明する事態に頭を悩ませても意味がないし、何より寒い。
玄関内に滑り込んだ政宗は、見覚えのある泥まみれの汚いスニーカーと桃色の小奇麗なパンプスに気付き、ああと納得した。どうやら、あいつらが来ているようだ。
「sorry.遅くなった。」
「あ、伊達ちゃん。全然大丈夫だよ。」
にこやかに笑って政宗を出迎えた佐助は案の定割烹着姿だった。
「あいつらが来てんのか。」
「うん。」
「今何してんだ?」
「二人で仲良く綾取りしてるよ。」
「そりゃ…また時代錯誤だな。」
「かえってああいう方が受ける時期って、あるじゃない。こう…、周期的にさ。」
グルグルと指先を回して周期というものを表現した佐助を笑い、政宗はロングコートを壁にかけた。
「しかし何でまたあいつらが来てんだ?」
「あー、それがねえ。旦那の方はお館さまとか、みんな、どうせバレンタインで和菓子屋は閑古鳥だといか言って、揃って慰安旅行に行っちゃって。いつきちゃんは伊達ちゃんに何か渡したくて、それで何故か俺様の家に来たみたいだけど。」
女の勘は鋭いというが、いつきの直感も侮れないものがある。政宗は苦笑いを浮かべ、疑問を口にした。
「なんであの信玄のおっさんたちが、幸村だけ置いてったんだよ。」
「お館さま曰く、『幸村よ!洋菓子の経営戦略に踊らされるのも何じゃが、お主も一人の男児。和菓子屋の跡取りであるからといって、逃げるわけにも行くまい。折角の学園生活、大いに青春せい!』だそうで。」
佐助の身振り交じりの声真似に政宗が思わず噴出す。佐助は満足そうに笑った後、政宗の手の中の包みを目を眇めて見た。
「それ、チョコレート?」
「ああ、余りモンだけどな。」
「それさあ、わかってるけど。あげるのどうせなら明日にしてよ。勘違いしちゃうかもしれないじゃん。」
どこかつまらなさそうに口を尖らせ言う佐助を、政宗は鼻で笑った。
「ha!実際勘違いした馬鹿は、今まで一人しかお目にかかったことはねえけどな。」
「…その馬鹿にほだされておいて、よく言うよ。」
片想いの相手からバレンタインにチョコレートを貰い、有頂天になっていた高校時代の己に、佐助は思い人の家業がチョコレート関係だと教えてあげたい思いに駆られた。
無論、過去を変える術を佐助は持たない。何より。
「その勘違いのお陰で、手に入れられたから良いんだけどね。」
ホワイトデイ。今では例年になっている政宗への和菓子の新作プレゼント。今年は何にしようか、とひっそり笑い混じりの呟きに、リビングの扉を開けようとしていた政宗が振り返った。
「?何か言ったか。」
「ううん、何にも。」
「…怪しいやつ。」
満面の笑みの佐助をジト目で見やり、政宗が不審そうに言った。しかし何を言われようと愛されていることを自覚している佐助は、気にせず声を立てて笑った。
結果、苛立った政宗に殴られ、殴られた仕返しにその日寝かさなかったのは、また別の話である。
初掲載 2007年2月14日