常は首元まできっちりと着込まれた藍染の着物を胸元まで大きく肌蹴させると、その下から青さすら感じるほどの白い首元が覗き、ひどく扇情的で蟲惑的なその光景に佐助は湧き上がった唾を嚥下した。妖の血が騒いだ。
「やらないのか?」
金色の髪から生えた同色の耳を、思いの外優しく撫でられ、佐助は誘われるまま歯を突き立てた。つぷりと微かな音を立てて、鋭い牙が肌へと沈む。傍からすれば、それは尋常な光景ではなかった。けれど、一切悲鳴はなかった。乱れる吐息すらなかった。元々、妖の血を継ぐ佐助の体液には苦痛を抑え快楽を与える効果がある。だから喘がれこそすれ、決して痛みに呻かれるようなことはない。かといって、目の前の男は呻かない代わりに喘ぎもしないのが、佐助の小さな不満だった。犬歯を引き抜くと同時に溢れ始めた真紅の血は肌と対照的に映え、その滲んだ血を、佐助は人間より長い舌の先で丹念に舐めあげた。
「…なあ。人の生き血を吸うのって、どんな感じなんだ?」
佐助の喉元をまるで獣にするように優しく撫でながら放たれた男の言葉に、佐助は視線だけ上げて男の顔を窺った。
男は、楽しそうに笑っていた。
徳川のご時勢になった。とはいえ、佐助の生活にはさして変化はなかった。戦国が終わり太平の世になったので確かに戦や流される血は減ったが、佐助はそれほど血を好む性質でもないから、他の妖のように生活に支障を来たすことはなかった。逆に、京に匹敵するほどの町が東に出来たので、佐助は時代の変化を歓迎したほどだった。行き交う人々は村のようにすれ違う者を気にすることもなく、村とは違う意味で排他的で自由だった。そのような土地において、佐助が己の身の上を気にする必要性はあまり感じられなかった。
そういうわけで、ここ一年ほど気に入って居着いている江戸の町を佐助が散策していると、ふっと、血の臭いが強く香った。決して鉄臭いわけではない。禍々しさとでも言えば良いのだろうか。妖の本能が感じる、甘い香りだった。すれ違い様のそれに佐助が振り向くと、近年にしては珍しく刀を佩いた男がいた。藍染の着物の上からでもわかる痩躯で、佐助ほどではないにしても珍しい焦げ茶色の髪の持ち主だった。
初め佐助は近場で戦でもあったかと思った。しかし今は太平の世、昔とは違うのだ。大阪の戦以来、それほど大きな戦があったとも聞かない上に、何より、戦で流したものにしてはその香りはあまりに甘すぎた。人間の血は怨念を受けることで、他者の、とりわけ肉親の血を流すことで甘くなる。それゆえ、妖の血を継ぐとはいえ、元々人間の胎から生まれたせいで同胞の血を飲むのに気が引ける佐助にはわからないが、好んでそういう人間を育て上げ食す妖もいるらしい。
そんな佐助すらも幻惑するほどの強い甘い香りだった。罪を含んだそれに、佐助は我知らず男の姿を記憶に留めようと、じっと目を見開いてその後姿を眺めていた。
大都会とはいえ、江戸にも等しく夜は訪れる。夜になれば花街を、あるいは火事場を除いた場所は等しく闇の帳に覆われてしまう。
それは、丑の刻のことだった。
ふと強く香った臭いに、布団に横になっていた佐助はぱちりと目を開いた。記憶の糸を手繰るまでもなかった。それは昼間嗅いだあの血の芳香だった。考えるより先に、佐助は上着を羽織り安宿を飛び出していた。途中で、灯りを忘れたことに気付いたが、夜目が利くので別に良いだろうと宿には引き返さなかった。何より、一刻も早く香りの元へ行きたかった。あの怨念を一身に背負う男が、果たして何をしているのだろう。
佐助が辿り着いたのは、町外れの路地裏だった。生活の底辺を生きる者たちが日々他者に情けを請い、役人に追われては戻ってくる、そんな場所の細い細い路地裏だった。
「…これ、あんたがやったの?」
灯りも持たずやって来た佐助を、昼間の男が一瞬いぶかしむように見た。手には血に濡れた刀を提げていた。昼間腰に佩かれていた、あの刀だ。その向こうには、暗闇に隠れるようにして伏せている死体が一つ転がっていた。
男は億劫そうに、低く笑った。
「他の誰がやったように見える?」
男のからかいに戸惑い佐助がまじまじと男を見ると、男はさも面白そうに笑いながら、懐紙で刀の血を拭い鞘に収めた。
「殺されたくなかったら、さっさとreturnして今夜のことは忘れるんだな。それが身のためだぜ。」
昼間は後姿しか伺い知れずわからなかったが、こうして正面から見ると、なるほど、男は良い見目をしていた。それこそ魔性の、妖の如き風貌だった。一つ目が更にその印象をいっそう強くしていた。なぜだかわからないが、佐助は己が興奮してくるのを感じた。強すぎる血の香りに酔ったのか、あるいは男に酔ったのかわからなかったが。
「ねえ。」
「なんだ、お前も斬られたいのか?」
男が隻眼で佐助を見詰めた。やんわりと、既に手は刀の柄に掛かっている。佐助は男の、内には熱情的な狂気を抱いているくせに冷徹とも取れるくらい冷静な瞳に嬉しさを覚え、笑った。佐助の様子に男が眉根を寄せたが、気にはならなかった。
「あんたの血を頂戴。」
その後、男に佐助が妖だと名乗ると、信じたのか定かではないが、男は楽しそうに笑った。
「妖はまだ斬ったことねえな。」
炯々と輝く独眼は佐助の血を欲していた。佐助はなぜかそれすらも嬉しかった。妖と人との合いの子である己よりもよほど妖らしい、否、妖よりもよほど狂気を持った人間に、救われた気がしたのかもしれない。妖であることに目を瞑り人間の振りをしてきた佐助は、もしかしたら――そんなの、お笑い種だ。
「そんな怨念塗れのどす黒い刀じゃ、俺様は斬れないって。妖を殺せるのは、神の遣いだけだよ。」
そう男の人斬りらしい言葉を笑えば、男は肩を竦め、ようやく刀の柄から手を離した。
「そりゃ、残念だ。折角の機会だったのに。」
肩を竦めた男の様子は本当に無念そうで、佐助はそれこそ声を立てて笑ってしまった。
それ以来、佐助と男は一緒にいる。
男は伊達政宗と名乗った。しかしそれが本名なのか佐助は知らない。本名なのか、確かめようとも思わなかった。同様に、佐助は政宗に身内を殺したことがあるのかどうかも尋ねなかった。ただ、殺害数は一人では足らないと内心推測はしていた。一人では、これほどまでに甘い香りにはならない。身内を最低二人は殺めねば――母か、父か、兄弟姉妹か。
「…なあ。人の生き血を吸うのって、どんな感じなんだ?」
政宗の言葉に佐助は己で穿った首の傷痕を最後に惜しむように舐めると、困ったようにへらりと笑った。
「…ちょっと後ろめたいね。だから俺様あんまり好きじゃないんだ、普通だったら。でもあんたみたいな人斬りの方が、妖なんかよりよっぽどじゃない?」
佐助は再び笑うと、政宗の唇に己のそれを押し当てた。拒まれない代わりに、受け入れられもしない。けれど、今はこの調子がとても居心地が良い。
「…血の味がする。」
息継ぎの合間に政宗が眉を顰めたが、佐助は構わず、獣のように口付けを貪った。
血は、苦手だった。己を完全に人から妖に堕とすものだから、だから佐助は我慢した。そのうち、心より先に身体が拒絶反応を示すようになり、元々半妖だった佐助は、そうして人でも妖でもない真実中途半端な存在になった。それなのにどうして、政宗の血は自ら欲してしまったのだろう。甘い、あまりに甘すぎる香りを放っていたためだろうか。しかしそれは言い訳にならない。すれ違ったときから、あのときから、佐助は確かに政宗に惹かれていたのだ。きっと、政宗を欲していたのだと、佐助は今にして思った。
「…これも、一種の一目惚れってやつなのかな。」
目じゃなくて鼻だけどと佐助は内心哂いながら、政宗の秀麗な額に己の額を合わせた。
「…は?」
「なんでもないよ。だから、」
佐助の目が爛と光った。猫のようにしなやかに金色に輝く瞳には、政宗だけが映っていた。それを政宗の隻眼で確認し、佐助はふわりと笑った。そしてもう少し時間が経ったらこの想いを告げても良いかなと思いながら、政宗の白い喉に手をかけた。
「続きを、ちょうだい。」
我慢足らねえなあと苦笑した政宗にそれでも了承の色を見て取って、佐助は笑って唇を寄せた。
初掲載 2006年10月15日
改訂 2007年9月19日