希望被雨回家歌   昭和パラレル   ※死にネタ


 何時散るともわからぬ儚い身であるので、手紙を記そうと思う。誰がこの文を読むかはわからないし、もしかしたら誰も読むことなく、俺は生き残るかもしれない。だが、もしも俺が死んだなら、この手紙をそっと読み、少しでも俺に哀れみを感じてはくれないだろうか。
 プロレタリアを気取るつもりはない。ただ、俺は誰かに知ってもらいたいのだ。
 俺が確かに存在し、確かに一人の存在を愛した事実を。


 俺が、幸村と何時どのようにして出会ったのか。正直記憶にない。職業柄医者と患者という立場であったかもしれないし、あるいは別の出会い方であったのかもしれない。何にせよ当たり障りのない、記憶に留まらない出会いであったことだけは確かだ。少なくとも、初めて幸村が俺の元へ患者としてやって来たのは、カルテによれば伍年前の十壱月弐日らしかった。「運動による剥離骨折」。素っ気無い俺の字で、カルテにはそれだけしか記載されていない。大勢の患者の中の一人に過ぎなかった幸村に、興味など持たなかったのだろう。
 一方、当時学生でしかなかった幸村が、一介の医者でしかなかった俺をどのように判じたのかはわからない。もしかしたら、弐つしか違わないにもかかわらず、医者として開業などしている俺のことを不思議に思ったかもしれない。幼い頃から独逸に住み、スキップを繰り返した俺はそのとき既に壱仇という若さで医者だった。今にしてみれば、才能があったからこその稼業だが、才能なぞなければ良かったと痛切に思う。しかし、真実幸村がどのように俺のことを判断したのか、俺に知る由もない。その問いは今まで尋ねてみようとも思わなかったし、また、今後尋ねる機会が得られるかどうかはわからないのだ。
 今は戦時中である。
 男爵家の次男坊だったとはいえ、世は廃爵の時代。跡継ぎではなく、教師や医者と言った職についている訳でもなく、ただ年頃の男に過ぎない幸村も当然のように国から徴兵され、異国へと出払っている。幸か不幸か幸村には戦の才があったらしく、風の噂で少佐になったらしいと耳にしたが、所詮戦に出向く明日も知れぬ身であることに変わりはない。
 戦が始まり、町医者から軍医へと成り下がった俺は、新しく上司になった男の下で、幸村の帰りを待つだけだった。ついに我慢しきれなくなった、今日までは。
 目を瞑るにはあまりに辛すぎることが、この世には多すぎるように思う。まして自分の手でその状況を生み出さねばならぬとなれば。
 俺は罪を犯し、罪から逃げたために罰されるのだ。
 話が逸れたようだ。
 何にせよ、幸村との出会いを俺は覚えていなかったし、またどのようにして人間不信の気のあるこの俺が彼という人に惹かれていったのか覚えていないが、幸村と初めて身体の交わりを持った日のことだけは覚えているのだ。
 季節は梅雨。窓辺には赤紫色の紫陽花が咲き、灰色の空から滴る雨に打たれていた。雨音だけが響くとても静かな昼のことだった。昼間のことだったから病院は定休日だったか、午前中だけ診察を行う土曜だったのか。幸村が目的で休みにした訳ではなく、最初から俺は午後は暇だった訳で、更に言えばそれは俺にとって予期せぬ午睡だった。何故、そのような状況に至ったのかは記憶にない。ただ、這わされた掌の大きさと掠める吐息の熱さ、重ねた身体の重みだけは覚えている。最中のことしか覚えていない俺のことを人は即物的だと罵るかもしれないが、曖昧な記憶の中でそれだけが真実味を持って重く、俺の記憶の中に留まっていた。
 幸村自身若く、また女ではなく男であるが、初めて快楽を知ったせいかもしれない。何が楽しいのか幸村はそれ以降、毎日のように俺の元を訪れては、肉の足りない骨張ったこの硬い身体を抱いた。それ梅雨ということもあったが、決まって雨の日のことだった。


 ふと疑問に思ったのは、幸村が赤紙を受け取る七月前のことだ。世間では開戦直前の緊迫した空気が流れながらも、俺たちの間には何一つ変化がなかったそのとき。やはりいつものように、灰色の空からは雨が降っていた。
 初めて身体を重ねた日から、その日まで。幸村が俺を抱くのは、決まって雨の日のことだった。雨が降れば可能な限り俺の元へとやって来るし、雨が降らねば、時には壱ヶ月もの間抱かないこともあった。それが幸村の中でどのような意味を果たしているのか。一度気付くと気になって仕方なく、その日俺は外からやって来てコートを脱ぐなり睦言を囁きながら腕を絡めてくる幸村に、まるで気にせぬ素振りで尋ねたのだ。初めこそ印象になかった幸村との交合は、その頃既に愛という何とも頼りなく不確かなものを形成するに至っていた。
 この四年で少年から青年へと立派に変じた幸村は、夜気に晒され冷たい指先で俺のシャツの釦を外しながら、小さく笑った。
 「貴方が少しでも、俺のことを思い出してくださればと思って。」
 わざわざ思い出す暇など必要ない。事実、目の前には幸村が居るのだから。
 そう返せば、幸村は指同様冷たい唇を俺の指に這わせて言った。夕食で口にしたのだろう、唇からは仄かに葡萄酒の香りがした。
 「雨の降るときには。」
 答えにならない返事をいぶかしむ間も無く、俺はよく磨かれたフローリングに倒されていた。背に感じた床の冷たさに思わず身を捩る俺を、幸村は逃がすまいとでもするように唇を重ね、なけなしの理性を剥ぐ勢いで貪った。俺は問うことを忘れた。
 幸は既にもしかしたら、知っていたのではないかと思う。世間にまるで関心のない閉鎖的な俺とは違い、戦に逸る世の風潮を、それが負け戦であることを、何れ徴兵される身であることを。知っていたに違いないのだ。遠い昔、四年前のあの日から。だから、あの口付けは文字通り口を塞ぐ行為であり、いつか来る別れを惜しむものだったのだろう。そう、俺は思うのだ。


 幸村は去った。俺は日本に残り、救われる見込みのない命を看取る日々だ。時折降りしきる雨に、異国の地で戦う男を思う。幸村が生きていることを願う。
 ああ、もう時間がないようだ。兵士たちの駆けてくる足音が聞こえてくる。
 俺はこんな実験は、嫌だった。
 国が違うというだけで、人をあんな風に…。
 …。
 いや、もう止そう。実験は終ったのだ。俺が研究所に火を放ったことで。
 俺が死んだら、せめて、こんな俺を哀れんではくれないだろうか。
 そして愛する男に、俺が男を愛していたと、俺は人として死んでいったと伝えてはくれないだろうか。
 ああ。
 今日も雨が降っている。








 読み終わり、佐助は息を吐いた。記載された内容に、思わず己が息を止めていたことにそれでようやく気がついた。
 所々煤け、下部は血だと思われる黒で汚れている手紙を記したのは、佐助の上官である真田――この文で幸村と呼ばれている――の恋人だった伊達という男だ。生前、佐助は伊達に会ったことはない。それでも、真田が護符の代わりにお守りに顰めた白黒写真で伊達の顔を見知ってはいた。男である佐助から見ても、悔しいが、伊達の見目は良いと思う。甘ったるいシネマ俳優やかつて隆盛を誇った武士とは異なり、何処か冷たさを備えた無機的な美しさではあったが、真田にそれが肌を重ねると蕩け柔らかく微笑むのだと惚気られ、そういうものなのかと思いながら写真を見つめた覚えがあった。
 塹壕の中で、絶望的な状況に耐えるためか、真田はよく恋人の写真を手に、恋人の話をした。元貴族という家柄上招かれたパーティーで元侯爵家の息子として、紹介された青年が伊達だった。第一子にもかかわらず、目の病ゆえに嫡子から外された伊達は、当時既に独逸で修学を終え、開業を控えていたそうだ。
 真田の一目惚れだった。
 直接問う勇気もなく人伝に医院の場所を聞くと、上司は骨折したにもかかわらず駅一つ分距離のある伊達の医院にわざわざ向かったらしい。初めて触れたときは感動のあまり涙したと真田に話され、佐助は生娘でもあるまいしと内心思ったが、真田の瞳に浮かんだ温かさに直接言うことはしなかった。
 そんな上司は、佐助を守るために死んだ。ビルマでのことだった。同じ小隊に配属されていた者は、真田以外、誰も欠けては居ない。指揮していた真田はそれを誇りに思い喜ぶだろうが、真田に命を救われ最期を看取った佐助にしてみれば冗談ではなかった。恋人の話を幸せそうに語る真田にこそ、誰よりも生きて帰ってもらいたかったのに。伊達への伝言を託され、数ヶ月後にようやく訪れてみれば、伊達は戦中に死んだと、少女を脇に従えた片倉と名乗る強面の男に告げられた。異国から連れられてきた人間を使用した実験に耐えられず、研究所に火を放ち、その咎で銃殺されたらしい。脇で片倉に寄り添うように立つ少女は研究所に連れられてきた、最後の、伊達が命を賭して守った子供だった。
 写真の代わりに遺骨の収められたお守りと手紙は、片倉と少女の立会いの元、雨の中一緒に燃やした。そうすることが何よりも二人にとっての供養になると、佐助は思ったからだ。小雨に火はしばらく燻っていたが、やがて白い煙を立ち上らせて消えていった。
 伊達の墓に線香を供え、初めて会ったにもかかわらず最後まで疑いもせず信じ、付き合ってくれた片倉に礼も告げ、去ろうとした際。ふと、佐助は未だ少女の名を知らないことに気付き、少女に尋ねた。
 「いつき。」
 儚い見た目とは裏腹に力強い、子供特有の大きくはっきりとした言葉遣いで少女は答えた。
 「あの人は「何時帰」ってくるのか、で「いつき」。政宗が付けてくれたんだべ。」
 少女の返答に佐助は込み上げた涙を飲み、無理矢理笑った。搾り出した笑みは頬に引っ掛かり、歪んだ。


 「何時帰るのか、あの人は待っているだろうから。」
 雨音の響く塹壕で、写真を見ながら真田は告げた。佐助を庇った際に負った傷からとめどなく血は流れ、土に浸み込んだ。
 「頼む。俺の死を、伝えてくれ。」
 ぼんやりと霞んだ瞳にはたして写真の画が写っていたのか、佐助に知る術はない。だが、真田は確かに心で恋人の顔を思い浮かべていたのだと、思う。
 「あの人に。」
 ああ。
 最期まで何と似た二人だったか。











初掲載 2006年11月12日