男は忍だった。
いずこの生まれか、ようと知れない。だが、異国の血が混じっているのだろう。それは男の赤い髪と甘い目鼻立ちに、端的に表されていた。
男の見目は生来人目を引くものだったので、そのせいもあってか、男は人目を忍ぶようになった。そして、男は忍の道を選んだ。陽炎のように揺らめき、霞のように儚い、まるで影法師のような忍に。
しかし、男はそのような忍でありながら、若者特有の気質――異性の気を惹きたい、注目の的に成りたいという愚かしい性質も備えていた。もしかしたらそれこそが、男元来の気質なのかもしれない。
人らしさを捨てた影として在りながら、あくまで人らしい道化であろうとする。人らしさを捨てた影として在る為に、どこまでも心閉ざす道化で在らねばならない。二律背反の情動の中で、男は巧く生きていた。男にとって、世界は詰まらなく、馬鹿らしかった。綱渡りするような真似はしなかったし、そのような危機も生まれなかった――彼に出会うまでは。
その晩、男――猿飛佐助は、奥州の地に立っていた。深々と降り積もる雪が全ての音を包み、静寂だけが支配する雪国では、佐助の吐く粗い息の音は顕著だった。佐助の下では雪のように白い背中が反り返り、その背の持ち主は何かを耐えるように拳を握り締めていた。
佐助は、力を込めすぎ赤を通り越し白くなった彼の指に己のそれを絡めると唇へ運び、そして、戯れるように二三度口付けた。戦場では六爪を握る強靭な手が、自分に手にかかればこれほど無力になる。それは男としての自尊心を大いに助けた。いつも彼を抱くとき、佐助の裡には、竜を征服している圧倒的なまでの幸福感があった。異性よりも遥か、同性より大きな征服への幸福と言って良いかもしれない。
彼――独眼竜と称される奥州の雄、伊達政宗は、額にかかり半ば以上汗で貼り付いた長い髪の間から佐助を睨んだ。政宗は佐助の勝手な陶酔も優越感も、何もかも全て承知していた。のみならず、政宗もまたそれらと相反する様々な感情――劣等感、屈辱感などを裡に抱いていた。
そのため、一連の行為が終わるや否や、政宗は佐助を身の上から退かしにかかった。だが、肘鉄を食らったくらいではめげないこの愛人は、事を成し遂げた男の性か、至極満足そうに鼻先を摺り寄せてきた。普段は撫でて固めてあるものの存外柔い髪が己の項を掠める感触や、夜も更けて伸び始めた髭のざらつく感覚、飽き足りないのか寄せられる唇は、政宗の厭うところではない。だが、こちらは抱かれて疲労の極みだ。こう重くては堪らない。
「fuck!退けって!」
政宗は身を捩り様背に圧し掛かる佐助を蹴り上げた。その暴挙に、佐助はいじけたように唇を尖らせてから、政宗の細い腰に腕を回し、背に顎を押し付けぶつくさと呟いた。が、眼前の愛人から放たれた殺気に恐れを為したのか、不満そうにではあるが身を引いた。
そして、ふっと気付いたでもいうように、窓枠の向こうで舞い散る雪を見た。闇の中ちらちらと輝く雪はそれだけなら美しい代物に見えた。だが、佐助はそれが愛人との逢瀬を妨げるもの、愛人の国を閉ざし凍えさせ死をもたらすものであることを知っていた。
しかし、知っていてなお、それは美しく見えた。政宗と同じだ。潔癖なまでの純潔、惹かれずにいられない尊さ、そして、気高い美しさと冷たい残虐さ。
佐助はちらりと政宗の背に目を向けた。そこには、戯れと呼ぶには些か熱心な情交の徴が残されていた。佐助はその跡に手を伸ばし、指の腹でなぞった。闇に浮かぶ白い背中は雪原に似ていた。政宗が奥州の王であることを知っているから、尚更、佐助にはそう思えるのかもしれない。ならば、この鬱血は兎の足跡だろうか。佐助はそっと嘆息をこぼして、首を左右に振った。違う、これは雪女に導かれ彷徨う愚かな旅人の足跡に他ならない。自らを滅ぼすと知りながら、それでも彷徨い出てしまう男の弱さの最たる象徴だ。
「そいえば、政宗、白檀つけてるでしょ。うちの旦那、犬みたいに鼻が良いから困っちゃった。」
「Ha!教えてやりゃ良いじゃねえか。何なら、目の前で実践してやろうか?」
政宗は可笑しそうに言うと、佐助の手を取ってわざとらしく音を立て接吻をした。佐助は顔をしかめた。
「馬鹿言わないでよ!あんな純な旦那にこんな関係、しかも、敵将とだなんて知られたら俺様殺されちゃうし、大体、あんたのそんな姿は俺だけが知ってれば良いの!」
佐助のこの答えに、政宗は興味深そうに身を起こした。
「へえ、意外と独占欲が強いのか?忍のくせに。」
「そ。だって、俺様だって忍の前に男だからね。そりゃ、相応の独占欲はあるわけ。それに、支配欲に、」
「顕示欲?Ha!幸村に教えるだけの勇気もないくせに良く言うぜ、この腰抜けが。」
政宗の茶々入れを、佐助は少々意外に思った。佐助の愛人は王という立場もあってか、行為そのものを楽しんだとしても、その睦言は厭う傾向にあった。竜という通り名に相応しく、凄まじく気位が高いのだ。男に組み敷かれるなど、不満以外の何ものでもないのだろう。女ならまだしも、男相手に睦言など不毛だとでも思ったのかもしれない。だから、もしこの些か悪趣味な会話を愛の囁きと受け取って良いとするならば、いまだかつて、佐助がどれほど望んだとしてもこのように甘ったるい空気は流れなかった。
先ほどまでいつも通りだったことを思い出し、佐助は不審そうに顎を擦った。政宗の気紛れは、人に支配されない自然のようだ。その偉大で高潔な勢力の前には、どうか望みのままに動いてくれるようにと、自分は無力にも祈り続けるしかない。再び外を見やり、佐助は言った。
「旦那がさ、その香りは何だって言うわけ。で、忍はこんな、場所が知れるようなのつけてちゃ駄目なわけよ。俺様の言いたいこと、わかる?政宗。」
ふん、と政宗は鼻を鳴らした。
「じゃ、来なけりゃ良い。どうせ冬でこの地は閉ざされるんだ。お前が無理して来なくても良い。」
「そんな酷いこと言わないでさ。俺様が、政宗に、会いたいんだって。」
へそを曲げた愛人の態度に内心恐れ戦きながら、佐助はその腰に取り縋った。今度は、蹴りではなく肘が跳んできた。それでもへこたれず、佐助は政宗に抱き着いていた。
「…俺様、忍なのに、こんなに政宗を好きで良いのかなあなんて不安に思うよ。」
「へえ、そりゃ大層な不安じゃねえか。」
政宗は上の空で佐助にそう返した。明日の公務、あるいはこの雪がもたらす災害に気を取られているのかもしれない。その気紛れを愛おしく思いながら、佐助は流されることを承知で呟いた。
「政宗はこんなことないんだろうね。だって、みんなの殿様だもの。政宗の愛はみんなのもので、政宗が執着するのは旦那との決着くらいだしさ。俺様なんて…、」
末尾は口に出されることなく消えた。
佐助が政宗に対して抱く感情は、恋着というよりは執着という言葉が相応しかった。佐助は政宗の愛がみなに注がれる性質であることを承知していたが、それでもやはり、愛人が優しい眼差しで他を見やるとき、強い嫉妬や憤怒に襲われた。それはじりじりと腑を焦がされていくような、焼け付く痛みを伴うものだった。
時折、佐助はその衝動を抑えきれず、その眼差しを受けたものを闇に葬った。政宗がそれをどう思っているのか、佐助は知らない。そもそも、佐助は政宗がその事実――佐助が嫉妬に駆られて政宗の部下を殺して回っている事実を知っているのかどうかすら知らなかった。
ただ、政宗は快活に笑うだけだ。
佐助は雪に目を向け、自然に祈る人の無力さを思った。それでも人は、自然の中に神を見出し、祈るしかない。それしか、自然に為す術はないのだ。
どうか、自分の望むような成り行きになってくれますように、と。
「雪が綺麗だね。」
ぽつりと落とした佐助の言葉を、気紛れな愛人は拾い上げたらしい。政宗は不満そうに鼻を鳴らした。
「適度に降ってる間はな。降り積もれば死人が増えるだけだし、降り終われば後は泥濘になって見苦しいだけだ。俺は、嫌いだね。」
「そう?俺様は大好きだよ。泥濘になっても、大好きだよ。むしろ、見苦しいくらいの方が大好きだね。」
佐助は、視線だけで射殺せそうな目付きの政宗の右目を思い出し、忍び笑いを洩らした。この愛人は自然のように気ままで、雪原のように美しい。ならば自分は、彼を汚している土のような存在なのだろう。佐助は、政宗が右目たちに神にも等しく崇められていることを重々知っていた。
「そりゃ、目障りにもなるわ。」
政宗が何か問いたげに片眉を上げた。佐助は無視して、少しでも愛人が乱れてくれるようありったけの愛をこめて接吻をした。
彼の足跡から雪は溶けて行き、やがて、泥濘の轍となるだろう。佐助はそのときが訪れることを願った。
初掲載 2008年8月3日