ひょうひょうと声がする。深夜、寂れた屋敷で聞くにはあまりにもの悲しく暗い、細い声だ。その声に応えるように顔を障子の外へ向け、政宗は縁側の外に広がる闇を押し込めたように黒い森を見やった。あれの枕言葉は何だったか。思いつく限りでも、うらなけ、片恋づま、のどよふ。なるほど、このような声では致し方あるまいともぼんやり思った。
「鵺か。」
戦に特化したとはいえ、そもそも忍だ。独言に近い小さな声を拾い上げたらしく、かすがが僅かに眉をひそめた。
「鵺?何がだ。」
「いや、気にすんな。…ただあの鳴き声が、な。」
その言葉につられるようにかすがが外へ目を向け、しばし耳をそばだてた後首を傾げた。
「…なんだ、虎鶫ではないか。鵺などと気持ち悪い名を口にするな。確か奇妙な化け物のことだろう。」
この世で一番恐ろしいものは人だと言う謙信に対し、かれに仕えるかすがの方は何よりも怪の類を嫌っている。忍など人を捨ててこその生業だろうに、戦忍だからだろうか、怪幽霊を怖がるなどとあくまで女らしいくのいちだと思い、政宗は低く笑った。
「かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇、足手は虎のすがたなり。鳴く声は鵺にぞ似たりける。…平家物語に出てくる物の怪だな。鵺…虎鶫に声が似てるだけで、こいつが鵺ってわけじゃねえ。あくまで、得体の知れないもの、扱いだな。」
「へえ、そうか。」
ふむと感心したように睫を瞬かせてから、かすがははっとしたように固まりこほんと咳払いした。羞恥からだろうか、頬が微かに染まっている。そんな様子を面白いものだと政宗が笑えば、かすがはきっと政宗を睨みつけた後、懐から文を取り出した。謙信からの近況報告だ。秘密裏に同盟を結んでから毎月来るそれを、政宗は友としても戦国武将としても毎回楽しみにしていた。
「謙信公に変わりはないか。」
「ああ。ご健在だ。」
「まあ、お前が守ってんだから当然だろうな。」
「当たり前だ!」
腹を立てたような声と裏腹に、かすがの表情は晴れやかだ。忍など人を捨ててこその生業だろうに、本当にどこまでも女らしいくのいちだ。再びひそりと小さく笑い、政宗は外へ視線を向けた。黒い森の中、時折思い出したようにではあるが、未だひょうひょうと声はしていた。
「俺のとこにも鵺が来てたんだが、最近とんと音沙汰なくてな。」
「む?何がだ。」
「でもありゃ、今にしてみれば、鵺っつうより百舌鳥だったのかもしれねえ。」
「百舌鳥は確かに鳴き真似が巧いから、鵺の声真似もするかもしれないが…夜鳴いたりしないだろう。」
それに対し返答はなく、かすがは眉根にしわを寄せ、呆れたように肩をすくめた。
「政宗の話はいつも謎かけのようで、謙信様ならば別かもしれないが私にはまるでわからない。ともかく、私はもう行くぞ。」
「ああ、謙信公に宜しくな。」
政宗がひらりと振った手を下ろす間もなく、かすがの姿は消えていた。政宗は小さく笑った。
かすがと同じ忍である佐助が政宗の元に来なくなったのは、一年ほど前のことになる。
「どうしよ。俺様、あんたのことが好きみたい。」
深夜突然、政宗の自室に忍び込むなり天井裏から告白した忍を、初め、政宗はいぶかしんだ。未だ武田と同盟を結んでいた頃のことである。これは何かの暗号なのだろうかと束の間考え込んでみたものの思い当たるものもなく、いぶかしむように相手を見れば、畏まり居住まいを正していた佐助は困ったようにぎこちなく笑った。政宗は眉間に手を当て、絞り出すように言葉を出した。
「てめえは確か戦場で、俺のこと、嫌いだとかほざいてなかったか?」
「うん。」
「…真田にやられて、脳味噌沸いたか。」
「人の主を、それはちょっとひどくない?」
「うるせえ。てめえが馬鹿なことほざくからだろうが。」
呆れた口調で煙管を手に取り、政宗はかんと皿に灰を落とし手を振った。
「出てけ。てめえの暇つぶしに付き合ってやるほど、俺は暇じゃねえんだ。他をあたりな。」
「どうしたら信じてくれんの?毎日お百度参りでもしたらさ、あんたは、俺の恋心信じてくれる?」
人を食ったような男だと思っていたが、これほどまでに馬鹿とは思わなかった。佐助の真意がまるで読めず、政宗は眉をひそめて大きく嘆息した。最早付き合うのも阿呆らしかった。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。」
「じゃ、馬鹿でもなんでもいいからさ。俺が最後までやり遂げたら信じてみせてよ。応えて、とは言わないから。」
そう言って、佐助は泣きそうに笑った。忍などという人を捨ててこその生業に就く佐助のことだ。自分の感情が信じられぬ心地だったのかもしれない。
九九回の訪問を最後にぱったり音沙汰の無くなった佐助に、半年ほど経った頃、政宗はふとそう思った。
かすがとの密会場所である屋敷から政宗が居城とする米沢城まで、距離はそれほどないが、その距離も政宗が国主であることを考えれば、警護の一人もつけぬのは不用心極まりない。しかし政宗はその日も共を連れるでもなく、一人静かに夜道を歩いていた。馬ではなく徒ではあるが、丑の刻までには着くだろう。
夜になると考えるのは、佐助のことだ。
忍ゆえ風の便りを耳にすることも出来ないが、織田に対抗するため伊達と上杉で同盟を組む契機になった長篠での武田の大敗から既に一年。佐助はあれで死んだものだと判じていた。今際佐助は何を思ったか。考えてみるが見当もつかず、政宗は毎夜溜息を吐いた。あれは結局、最期まで読めない男だった。読めずに終わって良かったのかもしれない、とも時折思う。ともあれ、懐かしんでみても全ては終わってしまった後なのだ。今更思いを馳せてみたところで、何一つ進まない。思い、政宗は苦笑した。
がさりと梢が音を立てたのは、そのときだった。
わざとらしい葉擦れに瞑目し、政宗は何か言いあぐねるように唇を開いたものの結局言葉を呑み込むと、半眼で音源を睨んだ。
「…百舌鳥の野郎が。今更何の用だ。」
「遅れちゃったけど、百回目のお参りに。…烏って言われたことはあるけど、百舌鳥、か。初めて言われたな。」
音もなく眼前へ降り立った佐助は政宗の見たところ一年前と変わった様子もなく、ただ困ったように頬を掻いた。政宗はふんと鼻を鳴らした。
「生きてやがったか。てっきり、てめえは野垂れ死んだとばかり思ってたんだがな。」
「まあ死にそうな目にはあったけど、それでも生きて、やって来たよ。ちょっと内輪でどたばたしてて、来るのが随分遅れちゃったけど。少しぐらいは信じてくれた?」
「HA!二枚舌ですら信じられねえのに、百枚ある忍なんざ信じられるはずがねえだろ。」
「ごもっとも。」
政宗は鼻で笑い飛ばし、止めていた歩を再び進め始めた。佐助が肯定した以上、これ以上の会話は無駄だ。帰りが遅くなると明日の執務に障りがある。僅かに早足になった事実は、立ち話で費やした時間の遅れを取り戻すためのものだと内心誰にともなく言い訳した。
「でもさ。」
そんな政宗が脇を通り過ぎようとしたとき、腕を掴んで引き留められた。思いの外強い力に政宗が顔をしかめ睨みつければ、佐助は困ったように笑った。感情を殺すのが仕事の忍とはとても思えない、ぎこちない笑みだった。
「でも、あんたはさ。俺が死んだと思ってたってことは、俺が約束を破ったとは思わなかったんでしょ?違う?」
その通りだ。政宗は佐助が来なくなると、長篠で死んだものだと信じて疑わなかった。生きていたなど、約束を不履行したなど思わなかった。矜持ゆえ肯定することもなく唇を強く噛み締める政宗の様子に、佐助の笑みが一気に安堵したようなものに変わった。
「ねえ、だったらこれも信じてよ。」
同時に優しく抱きしめられ、身を固くする間もなく耳元で囁かれた。
「それとも本当はもうわかってたの?」
呆れた男だと政宗は思った。やはり脳味噌が沸いているらしく、無駄に妙な自信ばかりついている。政宗は腹の底から大きく息を吐き出し、脱力しながら吐き捨てた。
「てめえなんざ野垂れ死んどきゃ良かったのに。」
忍など人を捨ててこその生業だろうに、政宗の周囲には恋に現を抜かす忍しかいない。それが忍びの性なのだろうか。だとしたらとんでもない性だとぼんやり思いながら、政宗は笑って答えない佐助を睨みつけてからその口元へ噛み付いた。
ひょうひょうと鵺の声がしていた。
初掲載 2007年10月8日