織田の動向を探るため潜入した堺の町で、佐助がそのびいどろを目にしたのは偶然だった。
どうせ城下で集まる情報など高が知れている。第一、城下の噂程度ならば草として潜ませている佐助の部下たちが掻き集め、玉石分けて、佐助に報告しているはずなのである。それゆえ佐助はこれといって熱心に情報を集めるわけでもなく、店を点々と冷やかし混じりに渡り歩いていた。
その中で、件のびいどろを見つけたのである。まだ渡来品も硝子細工も珍しい時分だ。何より壊れ物であるびいどろは、店主によって大切に保管されていた。佐助がびいどろを見ることができたのは、ひとえに世間話をする中で店主の歓心を得たからにならない。
「こりゃあずいぶん、きれいだね。」
佐助はそう言うより他がなかった。澄んだ透明のまるで涙が凝り固まったような玉の中に、蒼青藍水色さまざまなあおが雷のごとく連なりながら一直線に奔っていた。
佐助はびいどろを一目見て気に入った。政宗を髣髴させたためである。
佐助がびいどろを見て思い出した伊達政宗という人物は、奥羽一帯を統べる大大名だ。初め、政宗は佐助の感情を逆なでするだけの嫌味たらしい男でしかなかったのだが、それがどうしたことか武田と伊達とで同盟を組むにいたって、佐助の興味をあおるのである。よくよく注意してみればさり気ない所作も洗練されており、また市井の者に対する戦場では決して垣間見ることのできなかったであろう笑顔も優しかった。なにぶん卵が先か鶏が先かという問題になるので、そのことが関係しているのか定かではないが、佐助は政宗に恋をした。何しろ初めての恋であったので、それが恋と称される感情であることに気付くのに、佐助はずいぶんと時間を費やした。
初めて恋した存在が、いつ縁が切れるとも定かでない同盟国の大名、それも男だったことに関しては、佐助自身驚きを禁じえなかった。しかし医者でも草津の湯でも治せぬものと申すではないか。佐助はあっさりとその恋を受け入れた。
佐助はしばしびいどろをしげしげと眺めていたが、やがて店主に向き合うと尋ねた。
「親父さん、これいくら?」
薬問屋かせいぜい浪人風情の身なりである佐助の問いかけに、驚いたのは店主である。
「悪いがねえ。あんたにゃ死んでも買えないと思うよ。そりゃあ、どこかの殿様にでも仕えりゃ別だろうけどねえ。」
農民が容易く田畑を捨て、武士に仕官する時代だ。それにしてもそのような荒れた時代に、店主はおよそ定まった身分に付いているとは思えない、明らかに流れの佐助が己を殺してでもびいどろを盗って逃げるとは思わないのだろうか。農民を失わないための上流階級による口上にすぎないが、商人は農民に劣る存在と外道の輩と考えられていた。拝金主義であるためだ。殺されてもいたしかたあるまい。しかしそのような懸念を少しも抱かないのは、それだけ堺では商人が重用されているということだろうか。あるいは佐助を信頼してのことであろうか。
佐助は声に出さず、胸中で小さく嗤った。もっとも、忍風情に比べれば商人の方が身分としてはずいぶんましなのであろうが、それにしても暗殺を生業とする佐助を信用するなどと。命がいくらあっても足りぬ話ではないか。
だが、信頼させて油断させてこその生業である。佐助はそんな様子をおくびにも出さず、告げた。
「大丈夫だよ。これでも俺様、実は結構持ってるから。身なりはあんまりだけどね。それで、いくら?」
佐助の返事に店主は半信半疑の様子ではあったが、一応付き合いというものを考えてのことか、値段を告げた。告げられた金額は、佐助の給金およそ半年分であった。主に滞納されている給金がちょうど半年分であったはずだ。
佐助はまた来る旨を伝え、いったんはその店を出た。
翌日、店を出た佐助の手には、大切に布で巻かれた上で桐箱に詰められたびいどろがあった。
米沢へ向かう道中手にとって宙にかざしたびいどろは、佐助の親指と人差し指の間で空の青を映してなおいっそう烈々と春雷のごとく輝いた。
「喜んでくれるかな。」
佐助は脳裏に興味深そうに目を細め、ついで満足そうに笑みを浮かべる政宗を思い浮かべた。大名として豪勢な暮らしをしている政宗の所持品に比べたら、実際のところ、こんなびいどろ大したものではないのかもしれない。だが、佐助は励ますようなびいどろの美しさと脳裏の政宗の笑顔に、淡い期待と弾む胸とを抑えきれなかった。
佐助が米沢の政宗の部屋を訪れたのは、夜も更けた頃だった。
忍である佐助が政宗を訪問するのは、幸村の従者として付き従う場合は別だが、たいていこのような遅い時分である。佐助は勝手知ったる様子で忍び込んだ天井裏で、政宗が1人きりになるのを待っていた。階下には何があったのか、深夜にしては珍しくも、政宗の側近である小十郎が共であった。
「政宗様、」
小十郎の若干怒気を含んだようなたしなめる声色に、佐助は珍しさから目を見張った。伊達軍はあまねくその傾向にあるが、その中でも筆頭に挙げられるほど政宗に甘いあの小十郎が、どうも政宗に説教をしているようなのである。このような夜更けになされる説教とはなんなのであろうと、佐助は耳をそばだてた。
「政宗様、昼は家臣の手前申しませんでしたが、国をまとめる者として国庫を無駄に費やしていかがしたします。鬼庭が嘆いておりましたぞ。」
「ha!だから、この俺に、茶器如きにprideを売り渡せってか?冗談じゃねえ!」
「国庫は民の血税によって成っているのです。本来であれば、国主の気紛れで浪費して良いものではないのですぞ。」
現在茶道が武士の間で流行しているが、政宗もそのはまっている者の一人である。好きこそ物の倣いなれということか、流れる所作は門外漢の佐助も唸るほどの見事なお手前だ。
その後も階下で交わされ続けた情報を整理してみると、どうやら政宗が茶器を壊したようである。その茶器は一国に匹敵するという名器だったが、手を滑らせて落としそうになった政宗は狼狽し、どうにか受け止め壊さずに済んだ。しかし、政宗は高い自尊心の持ち主である。そこがまた非常に魅力的でもあるのだが、いくら高価であるとはいえ茶器如きに狼狽した己を羞じ、また怒り、一度は救った茶器を自ら叩き割った。
政宗にしては珍しく軽率にして迂闊なことに、それは商人が見せに持ち込んだだけの未会計の商品だったようである。それだけに政宗の自尊心につけられた傷も深かったということかもしれないが、結局は茶器を壊したことによって、政宗は商人の言い値でその茶器だった破片を買わされたこととなる。
政宗の金は、ひいては国の、民の金だ。
小十郎の憤慨ももっともなものかもしれない、とどこか遠い場所で思いながら、佐助は茫然自失の呈で天井裏を後にした。
今宵、佐助が政宗に似合うであろうと持ち込んできたものは、びいどろであった。それは佐助の給料半年分に相当する品ではあったが、一国に匹敵する茶器に比ぶべくもない代物である。佐助と政宗との間に渾然と横たわる、どれだけ努力しようともどうにもならない決定的な格差を見せ付けられた気がして、佐助は物悲しかった。そしてそれ以上に、空しかった。
何も念頭になかった。米沢城から逃げるようにして佐助は走り続けた。否、それは正しく逃走であった。
どれほど走り続けたのか定かではないが、気付けば、佐助の眼下では最上川が黒い水面をたゆたせながら悠々と流れていた。いつの間にこのようなところに出てきたのだろう。佐助はぼんやりと川面を眺め、しばらくしてから、胸元から小さな桐箱を取り出した。びいどろの納められた、あの桐箱であった。
佐助は桐箱からびいどろを取り出し束の間黙って眺め、そして次の瞬間には、川面に向かって放り投げた。びいどろは小さく澄んだ高い音を立てて黒い川に飲み込まれ、一瞬にして消えていった。
空では星が瞬いていた。
佐助は桐箱を後方に放り捨てた後一度だけ川面を見やったが、すぐさま、何処ともわからぬその場を後にした。決して振り返らなかった。草むらを走り去る音だけが、夜のしじまに響いた。
たゆたうように川は流れ続けている。その暗く黒い水底では、今もあの涙の凝ったようなびいどろが、春雷を奔らせて沈んでいることだろう。
初掲載 2007年5月4日