白痴の愛


 「髪、切ったんだ」
 振り返りもせず口にした呼びかけは少し素っ気無くなってしまい、佐助は自分が礼儀を欠いたことに気付いたが、まあ良いか、と判断した。元、という冠が今は付くにせよ、佐助は忍なのだ。例えそれが元主であっても、無礼も何もあるまい。一人頷く佐助の視線の先では、政宗が潜ったばかりの暖簾がまだ微かに揺れていた。
 「お館さまが天下を手にするまで、切らないんじゃなかったっけ?確か」
 それともお館さまは夢を果たさず儚くなったの?とは流石に口に出すことは憚られたし、噂にも信玄が落命したとは聞こえない。そこではじめて佐助は隣に並び立つ男を見た。後ろ髪は辛うじて風になびく程度しかない。あらまあ、随分短くしちゃって。佐助は目を細めた。
 「本当に欲しいものが手に入るまで切らない、と言ったのだ」
 「お館さまの望むものより欲しいもの、ねえ」
 少し前まで、少なくとも佐助が幸村に仕えていた頃には、幸村の本当に欲しいものとは信玄の欲しいものを指していたはずだった。わざわざ訂正する幸村に、佐助は眩しいものを見るように、目を更に眇めた。
 「で。切ったってことは手に入ったの、それは?」
 幸村は首を振って否定した。
 「いや、それはもはや手に入らぬ。それがわかったから、望むことは止めてしまった」
 「そう。旦那にしては、諦める、なんて珍しいね」
 幸村が寂しそうに微笑った。こんな風に微笑う人だっただろうか。佐助は自分の記憶の幸村と目の前の幸村を照らし合わせ、そんなことはなかった、と胸中で頭を振った。あの頃の幸村は真夏の太陽のように眩しく熱く鮮烈で、当時の佐助にも、今の佐助にもあまりに眩しすぎる存在だった。今はまるで冬の寒空の太陽のような、何とも頼りなく寂しい風情だ。佐助は時の通過を久しぶりに実感した。
 「佐助よ」
 「何?旦那」
 「お前は、自分の本当に欲しいものは手を伸ばしたら壊れてしまう、と言っていたな」
 佐助は曖昧な笑みを浮かべた。正直に言えば、幸村が、あんな風に冗談交じりで吐き出した佐助の本音を、ちゃんと拾っていたことに驚いた。
 「そうだっけ?」
 「そうだ。ついでに言えば、自分もきっと壊れてしまう、と。確かにお前はそう言った」
 「そっか」
 政宗はまだ戻ってこない。同じことを思ったのか、佐助の視線の先の暖簾を、まるでその先を見透かせるとでもいうように幸村も見詰めている。
 「相手も自分も壊して良いと思えるくらい、お前はあの方を愛していたのか」
 政宗の名前を直接呼ばないところは、昔から変わっていない。佐助は見出した昔との共通点に、少しばかり苦味の入り混じった笑みを浮かべて答えた。
 「それは、少しだけど全然まるきり、違うよ」


 未だ空は暗いが、あと一刻も経てば明けてしまう。佐助は闇の中でほの白く浮かび上がる政宗の、微かに上下する首を見詰めていた。佐助が手を伸ばし、少し力を込めればすぐさま折れてしまう白い首。そして力なく横たわるであろう痩せた身体に、何より、誰よりも苛烈な意志を失う隻眼。佐助は、昼間、政宗が「まるで犬の尻尾だな」とからかった幸村の後ろ髪に秘められた決意と、そのとき交わした会話を思い出していた。
 『俺様の本当に欲しいものは、手を伸ばしたら壊しちゃうからさ。それにたぶん、俺様自身も全部失くすし、跡形もないくらい無くなると思う』
 佐助は強く目を瞑り、政宗が珍しく屈託なく笑う姿や政務に励む真面目な様子を脳裏に描いた。愛することとは、何よりもまず意志を尊重し、真綿で包むように大切にすることで、愛とは、女のように柔らかく、砂糖菓子のように甘く、小春日和のように優しく、静かに失わないように育むものだった。少なくとも、佐助が幸村やかすがに対し覚えた愛情はその類だったし、それまで、佐助はそれしか愛というものを知らなかった。
 佐助はきつく閉じた目を開き、政宗へと手を伸ばした。ひたり、と指先が肉の薄い咽喉に触れ、血管が鼓動を伝えた。規則正しい脈動と体温に佐助は小さく嘆息し、もう一度目を閉じた。そのとき覚えたのは、殺意よりももっと強烈で性質の悪いものだった。


「互いに余すことなく全て奪い合って、失うのも。信じられないくらい幸せで素敵だと思ったんだ」


 罵りたければ罵ればいい。蔑みたいなら蔑めばいい。嗤いたいならそうしてもいい。他人はもう入り込む余地のない世界が、既にここには完結しきって存在しているのだ。にこりと佐助は笑った。
 「相手も自分も壊して良いと思えるくらい、犠牲を払っても良いと思うくらい、政宗を愛したんじゃない」
 昔は何となく口にするのが躊躇われ、幸村同様代名詞でばかり呼んでいた政宗の名も、今ではすんなり舌に乗った。かつてとは変わってしまった今を少しだけ、ほんの少しだけ佐助はさびしく思った。それ以上に胸を焦がすのは狂喜だ。
 「相手も自分も壊したいし犠牲にしたいと望む愛を、知ってしまったんだよ。俺たちは」
 瞑目した幸村を見ることなく、佐助は暖簾へと視線を戻した。相手のために全て失える、相手の全てを奪える。上等じゃないか。それは世界を閉鎖し、二人きりになることだ。
 「愛はひとつじゃなかったんだね」
 隣の小さな嘆息と刀を鞘から抜く金属音を、佐助の性能の良い耳は捉えた。さて、どうしようか。佐助は柔らかい笑みを浮かべて、思索する。
 政宗は、まだ帰ってこない。










初掲載 2007年2月25日