愛してるなんて言われたところで、俺には何も出来ない。


 佐助の本職は忍だ。武田では決して纏うことのない小袖は、その城の主に、戦装束を厭われての着用だった。佐助は毎回奥州へ訪れる度に好んで纏う裏葉柳色の小袖の裾を、見咎められない程度に握り締めた。指先は緊張に冷え切り、じっとりと汗ばんでいた。
 そのとき。その言葉が他ならぬ政宗の口から放たれたとき、佐助はいつもの胡散臭いと言われる笑みを貼り付けたままだった。佐助は忍だ。真田の、ひいては武田の忍だ。どうして、それが許されよう。
 つきりと痛みに心が疼いた。
 それは佐助が長い間望み焦がれた幻想の成就だった。決して手を伸ばしてはならない、望んではならない、叶えてはならない夢の到来だった。
 本来知ってはならない甘美な痛みを忘れぬよう、佐助は何気ない風を装って軽い口調で返した。
 「利用して利用されるだけの関係なんて、真っ平だよ。」
 政宗の細められた隻眼に、一瞬、暗い色が過ぎるのを佐助は見た。
 すぐさま襲った衝撃に、ぶれた視界。じわりと口内に広がる鉄臭さすらも致し方ないものだと感受し、佐助は殴られた頬を手で押さえ、政宗を仰いだ。
 「っ、」
 白くなるほど強く拳を握り締め、政宗が踵を翻し去っていく様を、佐助は黙って見送った。追うことを拒むように音を立てて締められた襖の向こうに、政宗の姿が消えた。
 佐助は小さく嘆息した。
 振り仰いだ瞬間、政宗の顔を見た佐助の貼り付けた苦笑が固まった事実を、政宗が気付かなければ良いと思った。あんな顔をさせたいわけではなかった。本当は、


 「      」


 (だって今は戦国で、俺たちは敵同士で、)
 佐助は、何処までいっても武田の忍だ。
 不覚にも滲んだ涙を、佐助は小袖の裾で拭った。以前涙を流したのは、思い出せないくらい昔のことだ。進んで手放したものの大きさに、それがもう二度と手に入らないことを思い、佐助は目を強く瞑った。どれだけ欲しても、もう手に入らない。もとより、あれは手にしてはいけないものだ。もう得ることのない代わりに、失うこともない。
 (これで、…良かった。これしか、道はなかったんだ)
 佐助はきつく唇を噛み締め、縁側から臨める空を見上げた。
 そんな言葉を告げられたところで、佐助にはどうすることも出来なかった。










初掲載 2007年2月25日