それは死ぬほどではなかった。
だが佐助は腹の怪我からの出血多量で意識が朦朧としてきていた。腹を掌で抑え簡単に止血したまま、ゆっくりと顔面から地面に倒れこむとドサリと音が立つ。その重い音を、佐助は何処か遠くに感じた。
周囲に敵兵の姿はないようだし、後は回収されるのを気長に待とう。自分の息の根が止まらない限界までは。
佐助は息だけでも出来るように、地面に張り付いていた顔を上げた。倒れた際に打ち付けた鼻から血が出ているようだ。佐助は己の迂闊さを呪ったが、しかしだからといってどうしようもなかった。立ち続ける気力など佐助には既にないのだから、倒れるしかない。
(ていうか、この程度で済んでマシだったか。)
佐助の属する上杉武田伊達連合と織田豊臣連合との最終決戦は、血で血を洗う様相を呈した。
先程まで佐助が命を賭して戦っていた相手は、佐助が力尽きて首級こそ挙げられていないものの、すぐ目の前で死んでいる。
(鼻血なんて、旦那みたいだけど。)
ここは死ななかっただけ目付け物と喜ぶべきだろう。
佐助は忍装束の首周りに鼻を擦り付け、鼻血を可能な限り拭った。懐に対主用の手拭は忍ばせてあったが、それをわざわざ取り、その上篭手で握って拭うだけの気力はなかった。懐は身体の下敷きになっている上に、手は先程の一騎討ちで痺れていて使い物にはならなかった。
粗方鼻血が止まった時点で、佐助は血と土臭さの入り混じった空気を、腹の傷に触らない程度に小さく浅く吸い込んだ。
(でもこの戦が終れば、死なないだけマシっていう時代が、)
「Was it over?」
佐助は聞き覚えのある声に、現状から事態は更に好転するのか悪化するのか、とっさの判断に困った。佐助は重傷の身なのだから、普通であれば味方の到来は喜ぶべきだ。しかし、来たからといって救助要請などが見込めない可能性が大いにある人物の場合には、如何に楽天的な思考の持ち主である佐助と言えど素直に喜べはしない。
その人物はたいそう大儀そうに佐助の方へと歩いてきた。
「hey.猿、Do you live?死んでんだったら返事しろ。」
冗談なのかもしれないが、多くの兵や兵器が投入された殺伐とした戦場で、それも血溜まりに伏した味方を前に言うようなことではない。その上、その人物は上杉や武田と肩を並べるほどの武将として、行政や外交で交渉に長けた国主として、状況を把握する能力には誰よりも秀でているはずだった。佐助の生存を見越した上での発言だとしたら、とんだお門違いだと佐助は痛む頭を抱えながら思った。生き抜いて当然などと言えるほど、佐助は特出した実力があるわけでもない。現に、佐助は重傷の身だ。
(ていうか俺様、マジで掛け値なしに死に掛けなんだけど…!)
普段にも増して言ってやりたいことは山ほどあったが、生憎、瀕死の佐助の舌は話せないほどではないがもつれていた。佐助は言いたい言葉の大半は飲み干し、のろのろと重い頭をどうにか動かした。
逆光で表情は見えないが、如何にも興味深いという様子で当の人物は佐助を見下ろしている。きっといつもの食えない笑みでにやにやと、それでいて辛辣なほど冷静で真摯な瞳をしているのだろう。
佐助は視線を男に向けたまま、男に見せ付けるために、怪我の許す限り大きく溜め息を吐いた。
「…。…それ、死んでたら返事できないから。伊達の大将。」
「忍のやることは何でもありなんじゃねえのか?」
伊達の反論に佐助は力ない笑みを浮かべた。
佐助自身はあまりに嫌な記憶だったので無理矢理忘れていたが、伊達に戦で対峙した時、霧を発生させながらそう言い放ったこともあった。その後、得意の忍術は破られ、霧に隠していた姿を発見された際に投げられたのが、先の伊達の台詞と全く同じものだった。台詞ついでに斬りかかられ重傷を負ったのも、佐助にとっては当時も今も忘れたくてたまらない出来事の一つである。
それだけではない。かつて佐助の口癖だったその言葉が何時しか用いられなくなったのは、全ての理由に置いて伊達が関係していた。
佐助の仕える真田が言うのである。「忍なら何でも出来るのであろう!独眼竜殿が誕生日に欲しいものを調べて来い!」
(俺は伊達のなんだっつんですか。)
真田が伊達と色を交えた付き合いに至るに及び、佐助はとうとう音を上げた。連日のように、自由奔放すぎる文字で綴られた文を届けろ、通い菓子屋の新作が美味しいから賞味していただくために持っていけ、奥州へ日帰りで連れてけ、などと無茶な命令をされるくらいだったら、無意識のうちに出てしまう口癖を矯正した方がはるかに楽だ。
しかし、佐助が忘れたからといって伊達が忘れる義理もなかったようだ。心底楽しむ口調で伊達にからかわれ、佐助は何故最終決戦の瀕死のこの状況で、心的外傷を抉られなくてはならないのかと、込み上げた涙を呑んだ。覆せないから過去なのだとはわかってはいるが。覆水盆に返らず。
「すんませんでした俺には無理です。」
佐助の完全降伏に伊達は笑い、六本の刀を地に突き刺すと劫そうに佐助の隣へと腰を下ろした。重傷の佐助のために救助を呼ぶ気は、予想はついていたが更々ないようだ。
佐助は諦めと悲しみを混合させた溜め息を小さく吐いた。ここ一年で心身ともにグサグサ突き刺さるほど諦めが肝心なのだと学習したはずなのだが、どうにもやりきれない。
溜め息ついでに呼吸をした佐助の鼻を、血の鉄臭さが擽った。佐助の鼻腔の血は既に固まり始めているため、既にそれほど臭いはしない。佐助は視線だけで空を見上げている伊達を観察した。風上に座る伊達から風下の佐助へと臭いはしているようだが、しかし伊達にこれといった外傷は見られない。
(敵将の血、かな。)
無造作に立てられた刀は軽く血を拭われていたものの、刀身が未だに紅く色付いていた。佐助は再び小さく溜め息を吐いた。
佐助は弱くはない。戦忍とはいえむしろ本職が忍でしかないことを考慮に入れれば、卓出した強さである。実際、真田忍隊といえば全国的に名が知れ渡っているほど有名だ。その長といえば言うに及ばず。名が売れすぎて本来の忍の仕事である隠密活動などに支障をきたす程度には、佐助は強い存在として挙げられている。
しかしそれでも、奥州筆頭として名高い独眼竜に比べれば、猿など勝てるはずもない。
(この人が異様に強いだけだって、わかってるけど。)
その隣に並び立ちあまつさえそれ以上の、伊達を守りきるだけの強さを望んだ過去を思い出し、佐助は瞑目した。所詮高望みだとわかりつつも抱いた甘い幻想は崩れ去り、現実に強かに頬を殴打された佐助はあっさりと夢を投げ捨てた。
竜の隣に立つべき人間は、佐助の他に居た。それは竜の背を守る右目ではなく、佐助の主だった。それだけの話だ。
「…旦那はどうしてる?」
脳裏に浮かび上がった烈々と閃光を放つ主の幻に耐え切れず、佐助は伊達に問いかけた。
「あいつだったら慶次とpair組んで。」
「?仲そんな良くないのに、珍しいね。」
実直で礼儀を重んじる真田と破天荒な振る舞いの目立つ慶次は、お世辞にも相性が良いとは言えなかった。そもそも慶次が突如上田城に押しかけ真田の蕎麦を食い逃げしていった、あの出会いからして悪かったと佐助は思う。
「相乗効果で暑苦しさを凄ぇ振りまきながら前田の本陣に特攻かけて、今はあそこの夫婦と面白おかしいjokeとしか思えねえようなくだらない戦闘繰り広げてるはずだぜ。終ってなきゃ。」
「…。」
それは非難ではなく、むしろ事の成り行きを面白がっているような口調だった。
しかし佐助は己の事でないにしろ主の取った行動に、羞恥心から思わず目を閉じた。胃に怪我を負った覚えは決してないというのに、キリキリと胃が痛む。何となく鼻に刺すような痛みや目頭に熱を感じるのは、気のせいではない。
(うう…泣きたい。)
「竹中は小十郎が対処したはずだし、豊臣は俺が潰した。織田一家はどうなってるかわかんねえが、まあ、武田のおっさんと謙信公の二人にかすがも居るんだ。大丈夫だろ」
髪に触れるものを感じ、佐助は瞳を開けた。失血で良好とはいえない視界の中、伊達が佐助の山吹色の髪を佐助が戸惑うほど優しく梳いていた。
「だからお前は安心して倒れてろよ。」
こびり付いていたはずの変色した血が、パラパラと佐助の顔に降りかかったが、佐助が気に留めることはなかった。そのような感想を抱く隙がないほどに、佐助は驚愕していた。
(血でごわごわのこんな髪、アンタは撫でたって楽しくないでしょ。)
そんな風に優しい指先で誰かに触れられた過去は、佐助の記憶にはなかった。
佐助は忍だ。情を殺して、情けを忘れて生きる。そういう風に作られた。生涯かけて唯一人仕えようと誓った真田にすら、真実心を許したことはない。こんな風に触れさせたことはない。優しさに触れれば、佐助は張り詰めた心が弛緩してしまうことを知っていた。
「お前だったらやりそうなのにな。訊かれたし、心配かけちゃうから、俺様が死んだこと教えないといけないと思って。とか言って。」
伊達が何を言っているのか、佐助はとっさに理解できなかった。伊達が黒煙の立ち上る戦場に視線を向ける。そして佐助はようやく、佐助が死してなお返答するかという先程の会話の続きなのだと悟った。
「…何か勘違いしてるみたいだけどさ。」
佐助の大分遅れた返答に、伊達が顔を佐助に向けた。いつもの食えない笑みは形を潜め、それでいて瞳だけは相も変わらず辛辣なほど冷静で真摯だった。佐助は嘆息交じりに、掠れた声で己の信じる事実を告げた。
「俺様はそんな、死後も責任取るような優しいやつじゃないよ。」
(軽蔑してくれたら良いのに。)
佐助の切望を裏切り、伊達は優しく笑った。
「お前が知らねえだけで、お前はいつだってずっと優しかったさ。」
(そんなこと、)
伊達のことを諦められると、佐助はようやく信じられるようになっていた。伊達の隣には真田が居る。勝てるはずもない。勝てる見込みのない勝負など、佐助はしない主義だった。
だが何故、伊達はそんな佐助の決意を忘れさせるようなことを言うのだろう。研ぎ澄ませた心は光を失い、伊達が手をかけるまでもなく鈍りきっている。
鈍らの心は刀と同じく、人を斬れはしない。佐助の忍としての生涯を、その軌跡を全否定するものでしかない。
弱くなる。
(ああ、)
佐助の誰にも触れさせることのなかった心は、伊達一人のために傷を負い、膿み爛れ回復は望めそうにない。せめて怪我を忘れられればと目を逸らしても、その一言で引き戻される。
佐助は強く瞼を閉じ痛むばかりの鼻を啜ると、震える咽喉を叱咤し、努めて無関心を装いながら心からの言葉を口にした。
「…ほんとは全然わかってないくせに。」
(流されてしまう。)
快活な伊達の笑い声は、時同じくして上がった鬨の声に紛れて消えた。
初掲載 2006年12月16日
Rachaelさま