夢を見ていた気がする。何の夢だか、覚えていない。
一度微かに睫毛を震わせ、政宗はゆっくり目蓋を開けた。ぼんやり滲んだ視界は寝起き直後であるせいだ。まだ眠りにしがみつこうとする頭を叱咤し、政宗は大きく伸びをした。辺りは次第に白んできた程度の明るさで、朝というには些か早い。しかし幾ら座って寝るのが常で慣れたとはいえ、それでは休まるものも休まらない。政宗の眠りは常に浅く、極々短いものだ。だが政宗は律儀なことに虎哉禅師の教えに従い、今まで一人で横になったことはない。恐らくこれからもそうだろう。
立ち上がった拍子に膝から落ちた毛布は、政宗の掛けた覚えのないものだった。政宗が風邪でも引いて執務が滞ってはたまらないと成実辺りが掛けたのかもしれない。小十郎、成実、そして綱元。この三人だけは気の置けない仲ゆえ、無意識に警戒を緩めてしまった。眠る政宗は、その存在に気付けなかった。それは油断なのかもしれない、と政宗自身時折思った。だが心地良い油断でもある。少なくとも、毒を盛られたり刀を向けられる心配だけはしないで済む。彼らに対して、政宗は全幅の信頼を寄せていた。
夢を見ていた気がした。何の夢だか、覚えていない。
思いながら政宗は障子を勢い良く開けた。流れ込んでくる早朝の外気は雪が降っていたこともあり、政宗の身体を否応なしに震わせた。少なくとも、上に何か一枚羽織ってくるべきだった。政宗は足から次第に染み渡ってくる冷気から逃げ去るように踵を返し、自室の火鉢に火を入れた。何か夢を見たはずだと考え事をしていたせいか、いつもの順番を間違えた。火鉢に火をいれ、部屋が暖まるまで待機してから、障子を開けて日差しを浴びる。それでもここまで済んでしまえば、後には侍従が呼びに来るまで布団に丸まり寝たふりをしていれば良い。いっかな思い出せない夢に先の夢の続きが見ることが出来れば良いと思い、政宗は咽喉に小骨が引っ掛かったような思いに駆られながら布団を引き寄せ目蓋を閉ざした。
「政宗様、いつまで寝ていらっしゃるおつもりか!」
声がするや否や勢い良く布団を剥ぎ取られ、政宗は動揺も露に声の主を仰いだ。小十郎だ。小十郎は呆れ顔で布団を両手に下げ持って、わざとらしく溜め息を吐いた。
「厳しい寒さゆえ確かに起きたくないとは存じますが、政宗様も国主なのですから昼過ぎまで寝るなど、」
「what?昼って、もう昼なのか?」
慌てて外を見やると、開け放たれた障子の向こうさんさんと太陽が輝いている。庭園に降り積もった雪が陽光を弾いて目に眩しい。政宗は隻眼を眇めて、小さく呻き声を上げた。誰も起こしに来なかったはずはなく、ということは侍従がとうとう諦めるまで政宗が寝こけていたのだろう。
「真田の次男坊が政宗様に会いたいとやって来ております。武田からの正式な使者ということもなさそうですので、会いたくなければ、追い返しますが。」
「…いや、会うからちょっと待たせろ。あいつにゃ団子でも出しとけば問題ねえだろ。すぐ支度する。」
「……はっ。」
何故小十郎はこれ程までに幸村のことを目の敵にするのだろう。訳がわからず、政宗は己の返答に頷いたものの本心ではとんでもなく嫌そうな小十郎をしばし見詰めた。幸村に出会った当初から、この片腕は彼のことを厭い続けている。まさか、政宗が友情に絆されて天下を武田に譲るとでも危惧しているのだろうか。政宗は心中密かに笑った。そんなことはありえない。政宗は自分の可能性を、天下、ただそれだけに賭けた。他のものなど眼中にない。ちりりと胸に走った痛みと脳裏に浮かんだ母の姿は、努めて忘れることにした。愛を乞うためではない、俺は俺のために目指す。
冷たい水で顔を洗うと寝惚けていた頭は途端にすっきりしたものになり、政宗は何処か着崩れていないか着衣を改め、幸村の待つ部屋へ向かった。
幸村は出された団子を睨んでいた。咽喉から手が出そうな勢いだ。それほど熱心に見詰めなくとも食べれば良いだろうと思いながら、政宗は「よう。」と声をかけた。
「幸村、今日はどうした。」
すぐさまはっとしたように幸村はばっと顔を上げ、瞳を輝かせて政宗を見上げた。
「政宗殿!合戦が一区切りつくのを待っていたところ、これほど時が経ってしまったが…実は某、夏にお館様に褒められたのでそれを報告しに参ったのでござる!」
「そりゃ、律儀だな。で、何で褒められたんだ。また何か武功でも上げたのか?」
正面に座り尋ねれば、幸村は拳を握り身を乗り出した。本当に聞いてもらいたくてうずうずしていたのだろう。だから、折角出してやったのに大好物の団子を食べるのも我慢したのか。ちらりと一度団子へ視線を向けて、それから政宗は幸村を見た。
幸村は興奮に上ずった声で、一言一言丁寧に言った。
「夏に、上田が、急襲されたのでござる。」
「災難だったな。」
後は勝手に話すだろう。それだけ感想を言うに留めて、政宗は話の続きを待った。
「相手は世に名高き徳川でござったが、こちらとて武田、負ける訳にはゆかぬ!上田と甲斐では遠く、父上が兄上とそちらに行っていたこともあり、某は佐助と事態に当たることになったのでござる!」
「徳川と、な。で?」
「相手には忠勝殿もござったが、どうにか持ちこたえ…勝つには至らなかったが、しかし、相手は徳川、しかもこちらは地の利があるとはいえど寡兵。お館様によくやったと…ぅお館様ああああああああああ!幸村は、幸村はやりましたぞおおおおおおおおおお!!」
「へえ。あの本多相手に引き分けたあやるじゃねえか。」
頬杖吐いて言いながら、政宗は極度の興奮に叫ぶ幸村を見てこんなところが小十郎の癇に障るのだろうかなどと思っていた。幸村のこういうところを政宗はあまり嫌いじゃないが、厭う者は本気で厭うだろう。かつて親交のあった光秀が、幸村のことを「五月蝿い。」と一言で切って捨てていた。気質からして水と油、相性は良くないとは思っていたがまさかあれほど嫌うとは、と思わず笑った覚えがあった。
「そいやお前、団子、食わねえの?折角出してやったのに。」
皿に一本残った団子へ目を向け問えば、幸村は「いえ、」と頬を赤らめた。
「政宗殿が食べてくだされ。その、…そう!某もう腹がくちくて!」
そう言って皿を手前へ差し出され、政宗は胡乱に幸村を見やった。物欲しそうな目をしているのに、何故、政宗に譲ろうとするのか。優しい男だ、と政宗は思った。親の教育が良いのだろう。誰かに与えることの出来る、そしてそれを実行することの出来る男だ。
「…そうか、じゃあ。」
手を延ばし団子の串を持った。優しい男だ、と再び政宗は密かに思い、目蓋を伏せて小さく嗤った。いや、違う。幸村は優しい男、だった。
「これは夢か。」
呟いた途端夢が解け、泡沫のように弾けて、消えた。
一度微かに睫毛を震わせ、政宗はゆっくり目蓋を開けた。ぼんやり滲んだ視界は寝起き直後であるせいだ。それでも頭は鮮明で、政宗は数度瞬きをした。外は先より随分明るく、侍従が来るまで時間があった。しかし再び眠りに就くのも躊躇われ、政宗は侍従を狸寝入りで誤魔化すことにした。主を起こすのは侍従の役目だ。それを奪う気は更々なかった。たとえ寝れずとも寝ている振りはすべきだと思った。
油断していたのかもしれない、と政宗は思った。久しぶりの夢に夢を抱いて眠りに落ちた。希望を託しすぎていた。見たのが遠い昔のことで、夢がどんなものであるか政宗はすっかり失念していた。父を殺める夢でもない。母に毒を盛られる夢とも違う。弟を斬る夢でもなかった。優しい、優しい平凡な日常の夢だ。それが何気ない日常であった分だけ、政宗の心は酷く痛んだ。
小十郎は死んだ、幸村も死んだ。もう随分昔の話になる。夢で幸村は引き分けたと報告したが、実際は、徳川の大敗だった。河を氾濫させたのだという。水死者も随分出たという話だ。それが禍根となり真田家は滅びを行くしかいかなかった。天下は徳川のものであり、怨まれている真田の先はなかった。大坂で幸村は死に、間を置かずして小十郎も死んだ。怪我を負った訳ではなく、小十郎は病だった。
夢を見ていた。温かく優しく、だからこそ辛い夢だった。
思いながら政宗は、しかしと胸中呟いた。夢に生き、夢に死に、そうして今度は夢の中で生き続ける。どこまでも幸村らしいものだと思い、政宗はゆっくり目蓋を閉ざした。夢を真っ直ぐ見る幸村と、現実に踏み止まった政宗。互いに信念を曲げられぬがゆえやがて来るだろう決別に、だから小十郎は危惧を抱いた。あれほど小十郎が幸村を嫌っていた理由がそんなものであったと葬儀の席で従兄弟の成実から聞かされたとき、政宗は思わず笑ったものだ。小十郎、お前の危惧は当たっていた。あれは俺を深く傷付けた。だが、と政宗は小さく笑った。だがこの傷が、今もこうして俺を生かし続けている。無駄なものなんて何もないんだ。
幸村との出会いも別れも、幸村の追い求めた果てしない夢も、政宗の生には必要だった。
初掲載 2007年10月17日
>曇りなき心の月にさきだてて 浮き世の闇を照らしてぞ行く
伊達政宗時世の句
蒼と紅で5つのお題さま