空はからりと晴れ上がり、野では白百合が咲き乱れていた。百合の花粉が落ちないことを知らないのか、それとも単に興味がないのか、知らないのか。無造作に白百合を掻き分け進む幸村の背を追いながら、政宗はもう夏になったのかと改めて思っていた。白百合を避けて踏んだ青草の――夏の香りが鼻を衝いた。もう、夏なのだ。巡る季節もともすれば、多忙な日々に忘れてしまいそうになっていた。
少し執務を減らそうと思い、しかし己でどうにもならないことだと内心諦め、政宗は幸村を再び見やった。屋敷を出てから随分時間が経っている。
「…お前、迷ってんじゃねえよな?」
無思慮に進み続ける幸村に政宗が呆れて問いかけると、図星だったのか幸村がびくりと肩を揺らした。政宗は大きく溜め息を吐いた。
「方向音痴だってのは知ってたが、あの忍がいねえと何処にも辿り着けねえのな、お前。」
「そのようなことはない!」
「そんなこと言ったって、事実だろうがよ。」
焦りに頬を紅潮させ振り向いた幸村は、それでも笑いかけた政宗に恥ずかしそうに目を向け黙った。そのしおらしい様子にいつまで経っても変わらぬ男だと密かに思い、政宗は改めて己が変わってしまったことを認識した。政宗も一国の主だ。乱世から太平の世に移り変わった今、昔のままではいられないことも事実である。だが、変わらずままいる幸村を見ると、胸がつまるのも事実だった。
「その、道は忘れてしまったのだが、もっと綺麗な景色が広がる場所があったのだ。そこに政宗殿を連れて行きたかった。」
「別に、俺はお前がいてくれりゃ良かったのに。」
「それでは某の気が済まない。政宗殿にはいつも某の一番を見てもらいたいのだ!」
少年のように輝く瞳でそう告げられれば悪い気もしない。政宗はゆったりと笑い、頬に花粉を付けた幸村へと手を延ばした。
「…俺には、か。」
強い不安がもたげていたがそのまま指先は頬に触れ、政宗は内心大きく安堵の息を吐いて、強く幸村の頬を抓った。
「痛っ!政宗殿、何をするのだ。」
「うるせえ。どうやったらこんなとこまで花粉をつけられるってんだ、寝惚けてんのか。お前、本当忍がいねえと何も出来ねえな。」
「だからそのようなことは!」
「そんなことある。だってお前、実際今迷ってんじゃねえか。」
出来ることなら告げたくなかった。告げなくて済めばどれだけ良かったことだろう。懐かしい温もりを覚える指先を離し、政宗は幸村をまっすぐ見つめた。
「お前はもう死んでるんだ、真田幸村。」
驚いたように目を見張り、次いで幸村がゆったり笑った。全てを思い出したのだろう。また強く夏草の香りが鼻を衝き、政宗は口端を無理矢理引いた。ぎこちなくとも笑うべきだ。死出の見送りに涙など、政宗の矜持が許さなかった。幸村もそれは喜ばないだろう。
「わかったらちゃんと真っ直ぐ向こうに行けよ。俺に一番を見せるのも良いけど、それよりお前の方が大事だ。」
「そうか。」
「そうだ。俺より自分を大事にしろ。」
それから政宗は腕を組み、呆れたように言葉を続けた。
「忍は確かにいねえけど、まあ、流石のお前も行けねえってこともねえだろ。…あんまり期待も出来ねえが。」
もう幸村が死んでから一年余りが経っている。あれもこんな夏の日だった。思いながら政宗が告げれば、幸村も自信なさげに笑った。政宗はそれを目を眇め見やり、時の流れを思い知っていた。変わってしまう政宗と異なり、変わらないまま幸村は遠くへ去っていく。切なさを覚えてはいたが、不思議と悲しくはなかった。
「じゃあ、俺が行くまで――またな、幸村。」
「政宗殿もお元気で。」
「ああ。」
ひらりと手を振り、政宗が目を向けたときにはもう幸村の姿はなかった。あちらへ向かってしまったのだろう。せっかちなもんだと小さく呟き、政宗は黄色く汚れた手を見つめた。見れば、袴も花粉が付いている。決して消えない幽霊の名残は、幸村自身に良く似ていた。
「夏の野の繁みに咲ける姫百合の、知らえぬ恋は…、」
最期までそれを黙っていたのは、政宗に最初から告げるつもりがなかったからだ。特に隠していたわけでもないと思う。実際幸村も知っていたから、今日こうやって会いに来たのだろう。一人ごちて政宗は来た道を戻るべく足を返そうとし、ふと差し込んだ夕日にそれを取り止めた。次第に色付き始めた空を映して、白百合が朱色に染まっている。まるで姫百合のようないでたちだ。いつの間にこれほど見晴らしの良い場所に着ていたのだろうと束の間呆けたように立ち尽くし、政宗は呆れたように笑みをこぼした。
「何だ…あいつ、目的地に着いてたんじゃねえか。」
あちらへも無事着ければ良いが。足元で揺れる白百合を見て、政宗は大きく嘆息した。知っていたのか知らないのか。万葉集など幸村は知らないと思うが、己で思った直後であるだけ何となく居心地の悪さも感じた。
ふっと一瞬、言ってやれば良かったのかもしれないと思った。教えてやれば幸村は満面の笑みで旅立っただろう。政宗の一番は幸村だった。変わってしまうこの世界で、それだけが、変わることない真実だった。
初掲載 2007年10月15日
「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ」
大伴坂上郎女 / 万葉集
蒼と紅で5つのお題さま