まるで正反対な二人だった。片や西洋かぶれの新しすぎる、「奇抜」としか評されることのないヒューマニズムの下、自らを慕う民のため自らの手で天下を求める青。片や下克上が主体の戦国時代にあっては異端でしかない古すぎる固定観念に囚われ、個ではなく家のため、主の理想に従い天下を追う赤。一方は今は亡き軍神に愛され、他方は甲斐の虎の後継としてある。
好敵手となるべき定めの下、生まれてきたような二人だと人は言う。
しかし佐助は、二人が好敵手になることはないだろうと考えていた。理由は単純だ。彼ら二人はあまりに対称で、対照的すぎた。その思想の違いはもはや惹かれあう以前に、「理解不能」の範疇だろう。故に、佐助は二人が軍神や虎のように相容れることは決してないだろうと判じていた。
だが、佐助の読みは甘かったようだ。あまりに、あまりに対照的すぎるが故に、彼らはぴたりと噛み合い嵌ってしまった。まるで初めから一つのモノであったように。
佐助は溜め息を吐いた。
「だからって、焦がれすぎて恋しちゃうのはどうかって思うけどねー。」
佐助は米沢の大木に上り、懐に入れた文を取り出した。佐助の主である幸村が伊達当主である政宗に宛てたものだ。出掛けに幸村に隠れて一読した内容は、どう鑑みても恋文以外の何物でもなかった。
佐助は再び溜め息を吐いた。
幸村は未だ、動きつつある情勢を、知らされていない。
佐助の目の前では、幸村が餅を頬張っている。伊達を出る際、土産にと持たされたずんだ餅だ。
(どうして、)
佐助は唇を噛んだ。
政宗のことをかつてから、佐助は食えない男だと思っていた。それは腹を探らねばならない忍としては、いっそどこか興を覚えるほどだった。悟れない人物と腹を探りあいながらの付き合いは、佐助の好むところだ。だが、ここまで真意がわからないと、面白い以前に気味が悪い。
『お前が伝えろ。』
餅の包まれた風呂敷を手渡しながら、政宗は言った。
『今なら未だ、傷も浅くて済む。』
だったら、佐助に土産など託さなければ良かったのだ。それだけで、どれだけ、幸村が期待を抱いてしまうことか。
「旦那、」
佐助の声に、餅を食い終わり茶を啜っていた幸村が顔を上げた。何も知らない酷く幸せそうな顔だ。佐助は(暢気な、)と一瞬罵りたくなった。しかし怒りをぶつけるべき相手は、幸村ではない。
ぱちくりと目を瞬かせる幸村に、暫し躊躇いを見せた後、佐助は言葉を口にした。
「旦那は、伊達政宗を斬れますか?」
『旦那がアンタを斬れないって言ったら、どうするつもり?』
咽喉に引っ掛かった声を無理矢理絞り出し問うた佐助に、政宗はつまらなさそうに答えた。
『どうもしねえよ。俺はあいつを斬るだけだ。だが、』
ふと遠くなった隻眼は、何を思い、何を見詰めていたのか。
『あいつが斬れないと答えるようなら、俺は、あいつに失望するだろうな。』
政宗は一度も幸村の名を口にしなかった。文の返事は持たされなかった。ただ、形の残ることのない餅だけが手渡され、それすらももはや幸村の腹の中だ。
佐助は罪悪感を抱きつつ、苛立ちを胸に、言わねばならない言葉を吐き出した。
「雪が溶けたら、戦になりますよ。」
何れは知らねばならないことだ。政宗も、そう言っていたではないか。
佐助は一人縁側に座っていた。先程まで日の光に暖められていたその場所も、今は夜気に冷やされ凍えるほどに冷たい。だが、佐助はそこに座り続けていた。幸村の帰りを待っていた。
開戦を告げた途端、幸村は政宗に真意を問うため奥州へと旅立ってしまった。酷いうろたえぶりだった。気色ばんだのか、悲観したのか、絶望したのか。錯乱したのかもしれない。感情を探るのに慣れた忍の佐助にすら掴めない、あの幸村が表したとは思えないくらい、複雑な感情だった。
『何故、武器を手にした。武家に生まれたからか?男だからか?』
別れ際の政宗の言葉が脳裏に浮かんだ。
『他を武力で捻じ伏せてでも手にしたいものがあるから、俺たちは武器を手にしたんだろう。違うか?』
幸村のしたためた文を読み土産を持たせた流れで、まるで些事であるかのように、政宗は決別を口にした。幸村の想いを受け止め、同じ分の愛情を返した上で、政宗は。何故そのようなことが出来るのか、佐助には信じられなかった。
『ごねるようなら、あいつに伝えろ。』
幸村は錯乱するほど目に見えてうろたえたというのに。
『力には責任が付随する。それすらもまとめて抱え込む決心もねえくせに、力を、持とうとすんじゃねえよ。』
「…そう言えるのは、本当に強い人だよ。」
少なくとも佐助には、幸村にその言葉を伝えるほどの勇気はなかった。
はたして幸村は、どのような顔で帰ってくるのだろうか。
「やっぱ来たのか。」
大木の陰から政宗がゆらりと姿を見せ、幸村は政宗の姿に我が目を疑った。脇目も振らず上田から馬を走らせて来たとはいえ、時刻は既に辰。夜が明けたばかりの時分に、政宗がこのような場所に居ようはずもない。場所は、米沢城から未だ幾分遠い場所だった。
「…何故、」
「忍はどうせ、お前に伝えられなかったんだろう。だったら、納得出来ないお前が来ることくらい予想の範疇だ。」
政宗は面倒臭そうに頭を掻き、幸村を見詰めた。それは戦場で会った時にも見たことがないほど辛辣な瞳だった。
「理想を求めるなら、縋るな。お前の欲するものは何だ。良く考えろ。俺ではないはずだ。少なくとも、俺は、お前ではない。」
否定の言葉に、幸村の胸は焼けるように熱くなった。怒りだろうか、悲しみだろうか。沸いた激情が何なのか、幸村には判別がつかなかった。
「わかったらもう振り返るな。」
幸村に背を向け歩き出そうとした政宗の肩を幸村はとっさに掴んだ。とっさに掴んでしまってから、幸村ははっとした。肩を掴まれ、幸村の方へ振り向かされる形になった政宗が眉を顰めた。苛立ちの表情は、幸村には困惑したようにも見て取れた。
己は何がしたかったのだろう。引き留めることは叶わず、仮に叶ったとて、幸村に何が出来る訳でもなかった。
現実に目を瞑れるほど幸村は楽観的でもなく、何より政宗がそんなことを求めていないことを、幸村は痛いほどに察していた。
幸村は唇を噛んだ。
「…すみませぬ。」
惜しみながらも離された手を、政宗は無言で見詰めていた。静謐なその青い瞳に幸村は思わず泣きたくなった。何故、自分は無力なのだろう。手にしたはずの力は脆く、今、幸村が欲している類の力ではなかった。武以外にも「力」というものが在ることを、幸村は長い戦乱の中ですっかり失念してしまっていた。
「―――good-bye.」
別れの言葉は短かった。
政宗が去っていく。幸村にかける言葉はない。政宗は振り返らない。
政宗の姿が朝霧に見えなくなってしまうと、幸村は耐え切れず地面に座り込んだ。次に、幸村が政宗と会うときは、天下を求めて殺し合っている戦中だろう。
胸が苦しかった。
最近幸村はよく馬に跨り、遠出をするようになった。遠出といっても上田領だ。上田領から出ることは決してない。もとより、幸村はどこにも行きたくはなかった。幸村が嫌々ながら馬乗りに出かけるのは、佐助に修練場から追い出されるからだ。
「旦那、根詰めすぎ。」
毎日のように繰り返されるやり取りに痺れを切らしたのは佐助だったが、だが、断固とした態度で佐助は幸村を修練場から追い出し続けた。無理にでも休息を取らさねば、幸村が槍を振り続けることを悟っていたからだろう。政宗との決別以来、幸村は我武者羅に鍛錬し続けていた。
その日、幸村は馬を走らせ、山間の湖に来ていた。湖といえば、先ず初めに幸村が思い起こすのは幸村の主である信玄の側室であった諏訪姫のことだ。しかし諏訪湖に身を投じた女性のことを、幸村はあまり知らなかった。
そのため、湖のその静謐な黒ずんだ青に想ったのは、最後に見た政宗の底の知れない瞳だった。
「…会いたい。」
ふと漏れ出た言葉に幸村は口を噤み、唇を噛み締めた。再会を願ってどうなるのだろう。その果てには殺し合いしかない。どちらかの死が決定事項の再会に、どんな望みが残されるのだろう。
幸村は雪に光を反射して、白く明るい空を見上げた。未だ上田には、薄らとではあるが雪が降り積もっている。奥州はなお深い雪に包まれていることだろう。小春日和の陽気に耐え切れず、どさりと雪が音を立てて森を成す木の梢から崩れ落ち、幸村は瞑目した。
雪が溶ければ、戦になる。
戦火が空に黒い煙を立ち上らせている。久しぶりに嗅いだ火薬の匂いに、幸村は小さく鼻を鳴らした。
奥州にも遅い春が訪れた。
いつの間に手を組んだのか徳川と同盟を成していた伊達の前に、武田は現在劣勢だ。現状を打破するには、敵武将を討ち取り士気を上げる他ない。
粉塵を巻き上げながら近付いてくる騎乗の人の姿に、幸村は武器を手に持ち直した。とうとう待ち望みながらも忌避した、政宗との再会だ。
「久しぶりだな。」
「真、お久しぶりにございまする。」
道端ですれ違ったかのような軽い政宗の口調に、幸村は泣きたくなった。何故、かくもこの人は強いのだろう。政宗が責任であり意思だと断じた武器を、幸村は構えた。
「真田源次郎幸村。いざ尋常に一騎討ちを申し込む。」
感傷的になっても己を傷付けるだけだとわかっているのに、何故、こうもこの人を求めてしまうのだろう。一時交わっただけの道が離れたとて、それは問いかけることすら愚かしい、ただの自明の理であるというのに。
それでも、この人が恋しい。
「ha!良い根性だ。奥州筆頭伊達政宗、引き受けた。」
馬から降り立った政宗がすらりと六爪を引き抜いた。突きつけられた白刃に、悲しみと喜びがない交ぜになった感情が沸き起こったが、幸村はそれを沸いた唾とともに飲み込んだ。
「―――いざ、推して参る!」
久方ぶりに見た政宗はかつて会った時と寸分も変わらず、幸村の目に輝いて映った。
「旦那!」
一騎討ちに水を差したのは、佐助の呼び声だった。悲鳴に近い声に幸村の動きが微かに鈍り、その隙を逃さず、政宗の太刀が幸村の肩を抉った。
「ぐっ!」
「よそ見してる暇はねえんじゃねえか?」
青く澄んだ瞳から何を考えているのか、政宗の真意を読むことはできない。その瞳に、幸村は初めて政宗を憎いと思った。何故この人はこれほど強いのだろう。幸村を切り捨てて、更に前へ進んでしまうほどに。政宗に執着し続けている自分を否定された気がした。初めて、戦いたいのではなく消し去りたいと思い、幸村は血の伝う腕で槍を構え直した。
しかし幸村の凶暴な衝動は、佐助の再び放った言葉に叶うことはなかった。
「旦那、大変なんだ!撤退して!」
「くっ、ではひとまず今回はこれまでで撤退させて頂く。」
「生温いこと言ってんじゃねえよ!楽しもうぜ!」
追い縋るように伸ばされた刀を捌き、幸村は差し延べられた佐助の手を掴んだ。慣れ親しんだ浮上する感覚に、ふと視線を下ろせば地面が遥か遠くに見えた。
「 」
政宗の唇が動いた気がした。声にはならない、ただの動きだ。実際どうだったのかはわからない。すぐさま政宗の姿は、立ち上る煙に遮られ見えなくなってしまった。
だが幸村には、半ばで咽喉の奥に押し込められ潰された政宗の声は、己の名を呼んだ気がした。
戦が決まってからというもの、政宗に一度たりとも呼ばれたことのない。幸村の名を。
幸村の前には白布を面に掛けられた男の姿があった。それは幸村が人生の指針とし、一生をかけて仕えようと決めた信玄だった。
「…何、が。」
あまりの驚愕に幸村の声は咽喉に張り付き、掠れた。佐助が目を伏せた。
「病だったんだって、」
「やま、い?」
そんなこと、幸村は信玄から一言たりともも聞かされてはいなかった。天下に名乗りを上げる主君であればその死は機密事項だ、致し方ない話かもしれない。幸村は地面に膝をついた。信玄は死を悟ったからこそ、今回の戦に踏み切ったのだろうか。天下取りと己の死とどちらが早いか比べるべく。
「…武田の…俺たちの、負けだよ。この戦は。今、山本さんが和睦を申し出に行ってる。」
ふと、佐助が幸村の肩口を見た。
「…その怪我の手当て、しなきゃ。」
政宗に受けた傷がぱたりぱたりと地面に血溜まりを作っていた。信玄の逝去の衝撃に、幸村は痛みすら忘れていた。
佐助に防具を脱がされ、清められた布で傷口を拭われたときも、幸村は何も感じなかった。感じるはずの痛みは、一体何処へ追いやられたのだろう。
「随分深くやられたね。これは、一生、傷痕になるよ。」
傷など。幸村は嗤った。
「一生の傷、か。」
傷など、政宗に決別を告げられたとき既に出来ていた。
呆気ないほど短時間で和平の申し出は受領され、天下は伊達と徳川のものになった。
かつて上田で真田相手に敗北した家康は、幸村の処罰に関して渋ったらしい。だが幸村を含めた武田の将は一切の咎めもなく、設立された幕府の下、伊達と徳川に統合された。信玄が死に、幕府が出来たといえ、幸村の待遇は昔と何一つ変わらない。
(いや、)
幸村は首を振った。変わらないのは待遇だけだ、幸村は変わった。この一年でかつてない程の絶望を知り、殺意を覚え、幸村の物事に対する見方が随分と変わった。
大人になったと人は言う。
『寂しくなっちゃうな。結構旦那の世話焼くの好きだったんだけどな。』
生涯、忘れることの出来ない転機だったのだと思う。政宗に出会ったことと同じくらいの、そして、その出会いと地続きの転機だ。
幸村は唇を噛んだ。変わりきってしまった幸村の世界で、ただ一つ変わらないものは、政宗への情だった。確かに、一時は消し去りたいほど衝動的に憎んだ。
『取り成しがあったんですよ。』
佐助は遠くを見ながら、何故か酷く辛そうにその情報を口にした。
『徳川に敗戦を味わわせた真田を取り潰したい家康公に、あの人から。直々に。』
はっとして、幸村は伏せていた顔を上げた。
『そんなんじゃ、』
佐助は何かを言いかけ、しかし口を噤んだ。佐助がその後にどんな言葉を続けるつもりだったのか、幸村は知らない。だが。
「…憎めるはずがありませぬ。」
情をかけるくらいなら、いっそ殺してくれた方が良かった。
「政宗殿、」
こうして焦がれる胸の痛みに嘆きながら、生き続けるくらいならば、政宗の手にかかって死にたかった。
江戸に参勤した幸村は、向かいからやって来る人物の姿に足を止めた。政宗と、その腹心の部下である小十郎だ。あちらも幸村に気付いたらしく、幸村と政宗の目線があった。数年ぶりに見た青い瞳は変わることなく静謐で、耐え切れず先に目を逸らしたのは、幸村の方だった。
かつてからあった身分差は、同じ幕府という機関に属したことで、かつて以上に明白なものとなった。一武将に過ぎない幸村が、副将軍である――年若い将軍家康の後見であるため、実質的には将軍だ――政宗に声をかけられるはずもない。
政宗に深々と面を下げ通り過ぎるのを待つ幸村に、一瞬政宗の気配が揺らいだのがわかった。だが、政宗は何も言わず、幸村の脇を通り過ぎ城の奥へと去っていった。家康に会いに行くのだろう。
しばらくしてから幸村は面を上げ、政宗はこんな自分に失望しただろうかと思った。幸村は目を伏せ、唇を噛み締めると、立ち尽くしそうになる足を叱咤し、一歩前へ踏み出した。
決別ならば疾うになされていたではないか。何を、今更。
「道は初めから違えていたではないか。一時たりとはいえ、重なったことの方が、」
ああ、本当に。
本当に、何もかもが、今更だった。
初掲載 2006年11月25日
改訂 2007年9月18日
真伊達同盟さま