政宗が目覚めると其処は、極楽でも浄土でも黄泉でも地獄でも伴天連の説く天国でもなく、見知らぬ部屋だった。
身体はこの上なくだるい。重い頭と白濁した思考をゆっくり瞬きとともに可能な限り明瞭にし、政宗は、己が武田との戦で負けたことを思い出した。ふと視線を巡らせば、見覚えのない侍女が、政宗が意識を取り戻したことに気付きはっと態度を改めた。場所と現状を問おうとするが、引き連れた咽喉は擦れた吐息が漏れ出るばかりだ。
政宗はゆったりと再び瞼を閉じた。
次に政宗が目覚めたとき、傍には侍女ではなく、幸村が水の張った桶を手に座っていた。何故武田の信篤い将が控えているのか。見当がつかず茫洋と視線を向けると、政宗に気付いたのか、幸村が微かに目を見開き、次いでにこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「伊達殿、…目覚められましたか。御気分は如何です?」
「さ、なだ。」
幾許か擦れはしたものの、辛うじて声は出た。政宗は乾く咽喉を意識しないよう努めながら、もう一度幸村の名を口にした。今度は先より滑らかに呼べた。
「此処は?」
「上田にございます…未だ発熱されておられるようですな。」
「熱?」
「怪我のせいでござりましょう。」
幸村は熱で潤んだ隻眼の政宗を目を眇め見詰め、額の手拭を手に取った。先程変えたばかりの手拭は既に温くなっている。幸村はそれを水に潜らせ冷やし、固く絞った後、再び政宗の額へと乗せた。心地いい冷たさに目を細め、閉ざしてしまわぬよう己を律しながら、政宗は先程から気になっていたものへ視線を寄せた。
「真田、それは?」
「?ああ、鳥ですが。未だ目覚めたばかりですし必要ないかと思いましたが、一応お持ち致しました。」
「…?何が鳥の丸焼きなんだ?」
雉のものと思われる鳥の丸焼きに困惑する政宗に、幸村は首を傾げて答えた。
「戦場で。伊達殿が倒れる際に、鳥を食べたいと仰られ。」
「…?言ってねえが、…あ。」
大きく声を出した拍子に、今まで意識していなかった腹の傷が疼いた。政宗は痛みに顔を顰め、それでも、幸村をまじまじと見詰めた。瞳には多分に呆れが浮かんでいた。
「もしかして鳥に、なりてえ、と言ったやつか?」
きょとんと目を瞬かせ、暫くしてから幸村は照れたように頭を掻いた。
「…ああ。なりたい、と申されましたか。某も、今際に言うには些か変な言葉だと思っておりましたが…。」
「それは、な…。」
政宗はひっそりと嘆息し、ゆるりと室内を目線だけで見渡した後、天井を見上げた。目覚めたばかりの瞳では、欲求と比例して痛みばかりが募り、外界と己とを隔てる日差しを受け真っ白に光る障子を直視ことは出来ない。木目の緩やかな白い天井に覆われているため、空を臨むことは叶わなかった。天井を初めとして、周囲に忍の気配はない。政宗は天井から目を離さぬまま、幸村に尋ねた。
「何故俺は未だ生きている?しかも、わざわざ上田で。」
政宗の半ば混濁している記憶がそれでも確かならば、合戦は奥州で行われたはずだ。政宗の問いに幸村は、視線を合わそうとしない政宗を見詰めた。
「某が望んだからです。」
「奥州を乗っ取るのに、生かして人質にしておいた方が楽だから、か?」
「いいえ、そのようなことをせずとも。お館さまは必ずや戦乱を終らせ、遍く天下を治めます故。」
幸村の返答に怒りが湧くかと思ったが、ひたすら真摯で淡々と事実のみを伝える声色に、政宗はゆっくりと瞑目した。胸中に飛来したのは、憎悪や悲哀ではなく静謐だ。幸村の告げた言葉を胸中で反芻し、政宗は事実を事実として噛み締めた。
「…そうか。ならば、何故?」
幸村は目を細め、吐息と共に吐き出された政宗の台詞に気付かなかったように、立ち上がり障子へと歩み寄ると開け放った。幸村の行動に障子へと顔を向け、差し込んだ光に目を眇める政宗の視線の先を、雀が二羽三羽と戯れるようにして飛んでいく。眩しさに小さく嘆息した政宗に、障子に手を掛けたままの幸村が呟いた。
「伊達殿に、鳥は相応しくありませぬ。」
先程の政宗の問いかけに答えている様子ではない。幸村の突然の発言の意味を捉えかね沈黙を守る政宗を、幸村は厳しい表情で振り仰ぎ固い声で告げた。
「来世を望むのであれば、人が宜しいかと。」
「何が、」
「いえ。鳥にしろ人にしろ、伊達殿はまだ今生を生きているのです。来世を望むなど。そのようなこと、某が許せませぬ。」
枕元へと歩み寄ってくる幸村の戦場では決して見ることのなかった何処か底知れぬ恐ろしさに、政宗の高い矜持は己が圧倒され怯えを感じている事実を認めることが出来なかった。反射的に自身と幸村に対して湧き上がった痛烈な怒りで震える咽喉を叱咤し、本調子ではなかったが、政宗は怪我をおして身を起こした。
「…お前如きに許される謂れはない。」
「いいえ。今は例え現実を拒もうとも、伊達は武田に敗北し、御身は某の元にあるのですから。」
「…、」
幸村の物言いより、呑まれそうな予感を覚えさせる雰囲気に駆り立てられ、政宗は思わず右手を振り上げたが、起きたばかりで無力な手は幸村に掴まれ、呆気なく敷布団に押し付けられた。政宗は低く唸った。赤く瞼裏を染め眩暈すら覚えるほどの怒りに剣呑に光る政宗の目を、幸村は見据えた。
「天翔ける竜である御身をようやく地に落とし人にしたのに、それが鳥であっても、また、天へと帰られては堪りませぬ。」
つと政宗の血の気を失った青白い頬に触れた幸村の指先は、躊躇うように一瞬動きを止めた後、ぴたりと添わされた。政宗を見詰める赤褐色の瞳は、まるで熱病に罹ったようだ。政宗は瞳を逸らすことが出来ぬまま、見詰め返した。
「初めて戦場で垣間見えたあの時からようやく…、ようやく。手の届く距離、抱きしめることの出来る距離に貴方を引き寄せたのです。今更手放すなど、出来るわけがありませぬ。貴方はもう、俺のものだ」
「…、何を、お前は言っている。真田幸村。」
決して政宗に言い聞かせる風ではない。興奮に逸るまま、言葉を決して選ぶことなく、紡いでいるようだった。無意識の恐怖に政宗の睫毛がふるりと震えた。表面を取り繕うことも忘れ、困惑と怯えの感情も露わな政宗の姿は、追い詰められた獣を髣髴とさせた。幸村は先程までの固い表情を改め和らげた。
「わかりませぬか。」
頬に這わされた手は驚くほど熱い。焔を操る虎の若子は、まるで身体にすら炎を宿しているようだ。政宗は呆然と何処か見当違いなことを思った。身体より熱い胸に秘めていた想いを曝け出し、幸村は全てを焦がすような強い感情の滲んだ瞳を細め、酷く嬉しそうに蕩けそうな笑みを浮かべた。
「某はずっと貴方を熱望して止まなかったのです、伊達政宗殿。」
やっと手に入れた。
陶然とした声と続いて降りてきた顔に、政宗は、己の唇が緊張で乾きかさついていることを思いながら、次第に肌色にぼやける視界に耐え切れず瞼を閉じた。重ねられた唇は嘘のように軽く、熱い。
これは、もしや死後に見ている夢なのだろうか。
夢うつつの中、しかし腹の傷と強く掴まれた右手首の痛みが、それが夢でないことを伝えていた。
初掲載 2007年2月21日