駄目なんです


 「佐助、」
 かつてないほど深刻な声に、縁側で暗器を磨いていた佐助は手を休めて幸村を見た。
 戦が決まったのだろうか。だが、情報収集が仕事の佐助はそんな情報握っていない。大体、幸村の恋人が治める伊達軍相手なら話は別だろうが、戦如きでこのような悲壮な顔をする幸村でもない。
 悲壮。それは正しく悲壮な決意を秘めた顔だった。
 「どうかしたんですか?旦那。」
 佐助が幸村の傍から離れていたのは、二刻ほどだ。政宗の従兄弟である成実にいつもの如く決闘を挑まれ、佐助はひたすら逃げ回っていた。
 その間に、一体何が?
 (竜の大将に振られたのかな。)
 一瞬、佐助はそう思ったが、すぐさまその仮定を否定した。幸村と政宗は目を背けたくなるほどのバカップルだ。そんなの、例えエイプリルフールでも政宗が口にするはずがない。事実、どれだけ幸村を罵り、ボコリ、時には刀を抜いたって、政宗は別れるとだけは言わなかった。死ね、とか、殺す、は言ったりしたが。実際に斬りかかったりもしたが。
 (それに、)
 佐助は思う。仮に振られたのだったら、このような何かを決心しつつ佐助に縋るような目を幸村がするはずないのだ。
 戦国時代を生きる佐助は知らなかった。その目は、正しく未来の猫型ロボットに泣きつくときの少年の目だったことを。きっと、あと400年も時間が過ぎていれば、佐助は気付けただろうに。
 「政宗殿に、海釣りに誘われたのだ。」
 「…。」
 佐助はその一言で見事なまでに凍りついた。
 思わず取り落とした暗器がガチャンと音を立てて床へ、床から地面へ滑り落ち、縁の下へと転がったが、佐助はそんなことに気を回す余裕すらなかった。


 無謀なまでに怖いものなしに見える幸村だが、実は一つだけ、どうしようもなく駄目なものがある。
 海だ。
 佐助には良くわからないが、あの足元を攫っていく波の感触がぞわぞわと背筋に悪寒を走らせるらしい。波に砂が攫われることよって、段々沈んでいく足元も頼りなげで怖いとも。何より、決して尽きることのない波と、果てしない広大さがとてつもなく怖くて怖くてたまらないらしい。終いには、「何故かように塩辛いのかわからない!大体、入り続けると肌がひりひりと痛いではないか!」と、理由を尋ね続けた佐助は、幸村に八つ当たりをされた。
 幸村の生まれ育った上田には大きな川がある。その川で遊んだこともあって、幸村は決して泳げないということはない。むしろ得手不得手を問われたならば、得意な方だと佐助は思う。それでも、海は駄目なのだ。
 (別に海で溺れた経験もないはずなんだけどねえ。)
 あるはずがない。幸村は山国で、海とは無縁で育った。海を初めて見た頃には既に泳ぎも達者だった。というか、そもそも、海を見た時点で竦んでしまって動かなくなった幸村を、佐助は覚えている。だから、苦手…というよりも純粋な恐怖を覚えるのは、単に内陸部で育ったからという理由ではないと思う。
 では何が理由なのかと問われたら、幸村が挙げたことを信じるしかないのだが。何はともあれ、そういうわけで幸村は海が駄目なのだ。
 「旦那、海釣りって…。湖とかで釣りにしてもらえば。」
 「今の時期は海が綺麗なのだそうだ。」
 「でも、…旦那に海は鬼門でしょ?」
 幸村に海釣りが出来るはずがない。海は無理だ。恐怖の対象でしかない海のど真ん中で船に揺られるなど夢のまた夢、それどころか幸村は海を見るだけで涙が滲んでくるのだから。
 『苦手なものは克服せねばお館さまに笑われる!』
 と幸村らしい熱血で、逃げ腰ながらもどうにか海に浸かってみた幸村は、それが原因で更に海が駄目になった。当初海を見て竦んでいた足は、海に入ってからブルブルガクガクと震えた。
 その後、流石に幸村の海コンプレックスを心配に思った信玄によって、修行も催眠療法も何もかも。佐助に出来ることは全てやった。全てやった現在で、当初の苦手具合より少し悪いくらいに逆戻り、がようやくなのだ。
 もう佐助に出来ることは、何一つとして、ない。
 「旦那、」
 「政宗殿が折角誘ってくださったのだ。」
 「旦那、」
 「そ、某は!せっ、折角だぞ!折角政宗殿が誘ってくださったのに!」
 「旦那、」
 「…佐助、」
 「旦那、無理ですよ。」
 幸村は涙を浮かべて顔をゆがめたが、佐助が意志を変えないとわかると、細い溜め息を零して肩を落とした。
 佐助にだって出来ないことはある。だから佐助に出来ることなど、出来ないことを出来ないと告げる程度のことである。


 結局そういうわけで幸村と政宗の海釣りは流れた。
 だが、佐助の助言で政宗は以降幸村を海関係に誘うことはなかったし、その日は落ち込んだ幸村を慰める意味も込めて政宗はたいそうイチャコラと幸村を甘やかしたのだった。
 (痛み分けどころか、かえって旦那得してんじゃない。)
 なんて、天井裏から二人の様子を見ていた佐助は思いながら、天井板を静かに閉じた。これ以上は目の毒だ。それに、むやみに目敏い政宗の目が佐助を捉え、さっさと消えろと命じていた。
 佐助は溜め息を吐いた。いつだって、迷惑をかけられるのは佐助なのである。










初掲載 2006年11月29日