窓辺では吊るした鈴が涼しい音を奏でている。近く遠くと連なるように聞こえるのは蝉の音だ。もう夏になった。幸村は筆を置き、額に滲んだ汗を拭った。
今、幸村がしたためている文は政宗に宛てた陣中見舞いである。佐助が呆れるほど多かった幸村の奥州への訪問もすっかり絶え、政宗とは春先に会ったきりとなっている。
幸村は知らず乾いた唇を舐めた。
慣れぬ文をしたためるより直接会いに行く方が余程早いと助言する佐助は、かつてならば誰よりも幸村の政宗への接触を窘めていたはずだった。佐助の心情の変化を幸村は嬉しく思ったが、ただ一人大切に仕舞い込んでいた秘密を共有されてしまったような悔しさも抱いていた。
最後に幸村が政宗に謁見した時何をしたのか、佐助は知らない。佐助だけではない。幸村と政宗の他には誰も知らなかった。
その日、幸村が事前に連絡をつけていたにしては珍しく、政宗の政務が忙しかった。佐助は成実に追われていない。一人残され暇を持て余した幸村は充てられた客室を出ると、城の裏山を散策することにした。
どのように歩いたのか覚えていないので場所もわからないが、山で幸村は枝葉を大きく繁らせた大木を見つけた。かさかさとした分厚い樹皮は、花木に詳しくない幸村でもわかるものだった。上田にもよく植えられている桜だ。幸村は首を捻った。桜は花が全て散り、代わりに葉をつけた訳ではない。春めいたとはいえ、奥州の春は上田に比べて随分と遅い。まだ梅がようやく重い腰を上げ、その蕾を綻ばせ始めたばかりだった。
狂い桜なのだという。
それを知ったのは夜も更け、おいおい酒も回ってきた宵のことだった。酒の相手は、ようやく執務を終えた政宗である。年が近いこともあってか、幸村が奥州を訪れると決まって政宗は二人だけでの酒の席を設けた。片倉や佐助は、当然、主の身に何かあってはと酷く警戒し反対した。だが、武田と伊達の同盟が戦国という世に在っては異端なことに不動のものとなり、また回を重ねて安全を確認することでいつしか気に揉むことを止めたようだった。今では放置するどころか、数少ない近しい年頃の友人付き合いとして推奨されている節さえある。
「見に行くか。」
政宗はそう言うと、酒杯代わりにしている茶器を手に立ち上がった。その時の政宗の瞳が何処か遠くを見詰めていたことに、素面ならば幸村はきっと気付いただろう。しかし幸村は察することなく、政宗を追って立ち上がった。
山は昼間の閑静な美しさとは打って変わり、黒々と全てを飲み込むような恐ろしさを湛えていた。道は連綿と静かに長く続き、幸村は現在自分が何処を歩いているのか検討もつかなかった。その中で確かなものは、黙々と幸村の前を行く政宗の藍の着物に包まれた薄い背だけだった。幸村は足を速めた。実際はそうではなかったのかもしれない。だが政宗の足は酷く速く感じられ、幸村がどれだけ急いても追いつくことはなかった。
後になって政宗はわざとあのような道を選び、あのような歩き方を取ったのではないかと思ったが、真実どうだったか幸村は尋ねていない。ただそこが政宗にとって秘密に他ならないことを察した幸村は、そこに政宗の手によって案内されたことを誇らしく思った。
やがて目的の狂い桜に辿り着いた。
突然立ち止まった政宗に幸村が視線を上げると、満開の桜が空いっぱいに広がっていた。思わず幸村は身を震わせた。昼間には、この桜はまだ葉を繁らせていたはずだ。
狂っている。
闇の中で映える白に、幸村は壮絶な妖しさを覚えた。
「桜が狂うと妖が寄ってくる。」
政宗の声量は大きくも小さくもなかったが、明朗と辺りに響いた。
「桜に近寄ってはいけない。向こう側に呑まれるぞ。ここに来るのは狂ったものばかりだ。本当は、お前なんかが来るところじゃねえ。」
「政宗殿は。」
「俺は良いんだよ。疾うに狂ってんだから。」
政宗の目は遠くを見詰めていた。視線の先を追う幸村に被せるように、政宗が小さく呟いた。
「桜の木の下に、埋まっているものを知っているか。」
夜露に湿った土は山林同様ひたすら黒い。桜の幹に溶け合い何処から何処までが土で桜なのか、幸村には判別出来なかった。黄昏時ではないが、まるで彼岸と此岸の、互いの境界が曖昧になっているようだ。幸村は再び政宗を仰ぎ見た。政宗の白い顔は、桜同様闇夜に浮かび上がっていた。それにもかかわらず、幸村は政宗が闇へと溶けてしまいそうな不安を覚えた。
ひらりと桜の一片の花弁が、政宗の手にした茶碗に舞い込んだ。だが浮かんだ薄桃色に気付くことなく、政宗は杯を飲み干した。
その時幸村は酔っていたのだと思う。嚥下と共に上下した咽喉元の、滲むように差し込んだ月光に青みすら帯びた白さに当てられた。
「、政宗殿。」
それは衝動に違いなかったが、かつてから幸村が抱き目を逸らしていた仄暗い恋情に他ならなかった。重ね合わせた唇は酒精に濡れていた。触れた冷たさは体温を感じさせることがなくまるで死者のようだったが、かえって政宗に相応しいように幸村には思われた。唇はすぐさまその冷たさを惜しむようにして離れた。
あの夜を越えてから、幸村は奥州を忌避するようになった。少しも思わないと言えば嘘になるが、それは決して、あのような行動に出た後ろめたさや居た堪れなさからではない。
幸村はあの夜束の間味わった唇の感触を懐かしむように、指先で唇に触れた。唇は乾いていた。唇だけでなく咽喉も、そして心でさえも酷く渇いてならなかった。政宗が欲しかった。幸村が政宗に抱いたのは劣悪な羨望であり、敬愛との狭間で揺れる恋情だ。今は隠しているその想いも、いつか曝け出されてしまう日がやって来る。幸村はそれが怖かった。
次に幸村が政宗に会った時、辛うじて押し殺しているこの感情は堰を切り溢れ出すだろう。心は瓦解し、脆くも崩れ去るに違いない。幸村は瞳を閉じた。瞼の裏には、夜の闇に白く浮かぶ桜と政宗の顔が映った。幸村は小さく深呼吸をした。
もう夏になった。武田上杉伊達連合と織田豊臣北条の戦も近い。否応なしに、幸村は政宗に会うこととなる。
今日頑なに守っている垣根など、跡形もなく取り払われてしまうだろう。
初掲載 2006年11月15日
Rachaelさま