第五章 哮よ魔の妹   ※死にネタ


 「見て、長政さま…にいさまがいるよ…。」
 そう言ってそこに長政が在るように後方を振り仰ぐお市に、信長は顔をひそめた。薄々、こうなることは察していたが、やはり、実際に目にすると忌々しさばかりが募る。
 「たわけが…かの門を開いたか。誰ぞ、あやつを斬り捨てい。」
 音を立てて開かれた門にも、お市はぼんやりと立ち尽くしたまま入る気配が無い。お市は小首を傾げた。
 「にいさま…長政さまを連れてきたよ…どうして迎えに来てくれないの…?」
 「…そこまで落ちたか、愚昧の果てよ。」
 信長は配下のものに、お市を始末するよう指示を出した。お市はそれを笑いながら斬り捨てていく。
 「ひとつ、ふたつ…みっつ、みっつ…。ああ…長政さまが嬉しそう…。」
 まるで、好物を与えられた犬のようだ。信長は目を眇めて、そんな妹の様子を見る。お市は虚ろな笑みを浮かべ、ぶつぶつと呟く。
 「長政さまがね…にいさまの首がほしいって…。」
 「欲しているのは長政か、貴様自身か。」
 「市じゃない…長政さま…長政さま…。」
 呟いたきり静かになったお市に、再び、信長は問いかけた。
 「この首を取ってなんとする。貴様が余にとって代わろうとは言うまいな。」
 「にいさまが首をくれるって…ふふ、はは。」
 笑いながら、一心不乱に将兵を殺していくお市に、思わず、信長はおかしさが込み上げ笑った。
 「貴様が余に成り代わるか。大それた女よ…フハハ。」
 お市は見かける兵をことごとく殺し尽くし、邁進していたが、時折、ぼんやりと立ち尽くした。
 「わからない…わからない…長政さま…。」
 焦点の定まらない目で宙を見上げ、唇に人差し指を当てたまま呟いたかと思えば、急に耳を塞いで頭を振ることもあった。
 「いや、聞きたくない…みんな黙って…!」
 織田の将兵は、お市が織田へ戻ることになった経緯を、お市が大切そうに抱えている黄金の頭蓋が誰のものであるのかを知っている。お市の精神が崩壊したことを理解し、憐憫の情を抱くこともあった。しかし、だからといって、無碍に殺されるわけにもいかない。お市は彼らに刃を向けられるたび、心底楽しそうに笑い声を漏らした。
 「長政さま…もうすぐだから…今度こそ、がんばるから…ふふ、ふ。」
 「来い…貴様はもはや我が妹にあらず。余に刃向かわんとする、愚かな悪鬼よ。」
 最後の一人は、柴田勝家だった。幼少期からお市に想いを寄せていた勝家は、何とかしてお市を説得しようと試みた。しかし、狂気に陥ったお市の心にその言葉が届くことは無かった。無情にも、勝家は斬り殺された。死の間際、勝家は、己ではお市の絶望を抱え切れなかったことを悟る。しかし、今更の理解だ。勝家は屋根を転がり、お市の視界から消えた。邪魔者を排したお市は薙刀を引き摺り、再び歩き始めた。後方で、何かが地面に落ちたような重い音が響いたが、お市の関心を引くには至らない。薙刀が蝋燭に触れて、押し倒した。それにも、お市が気付く気配は無い。蝋燭の火はじりじりと寺の壁を焦がし、やがて、焔となって乾き切った壁を駆け上がった。
 燃え盛る本能寺。お市は兄と対峙していた。血塗れの妹の姿に、信長は手にしていた杯を放り出し、立ち上がった。妹は、このまま深い闇に呑まれ、本来の己を受け入れるか。あるいは、偽善の内に生を終えるか。あの日、信長は賭けをした。多少変質しているが、待ち望んだ答えが目の前にある。
 「フハハ…。」
 「うふふ…。」
 「ハハハハ…。」
 「ふふふふ…。」
 もはや堪えようのない狂喜に、信長は身を任せた。
 「ハーッハッハッハッハ!」
 「あーっはっはっはっは!」
 妹は、己と同じ高みに立ったのだ。
 「「是非も無し!」」
 二人は一気に間合いを詰めた。
 「人間五十年…フハハ!」
 「下天のうちをくらぶれば…あはは!」
 哄笑する信長の銃撃を、お市が笑いながら弾く。間を置かず、信長は刀を薙いだが、これもまた、お市の鼻先を掠めるに終わった。一段、お市が腰を落とす。
 「哮よ!貴様の欲するところを示せ!果ては余が直々に比良坂に送ってやろうぞ。」
 一歩踏み出し突き出した薙刀を、身を捩ることで避けられる。それでもなお、お市は楽しそうに笑った。
 「にいさまと渡りあっている…ふふ、はは。」
 「それで余になったつもりか…足りぬわ!」
 重い音を立てて、刀を薙刀がぶつかり合う。力負けする前に、お市が後方へ飛び退いた。その目は、渇望に満ちている。
 「市に関わったら不幸になる…にいさまが…市をそう作ったのね…?」
 「貴様ごとき人形に、余の吉凶を定められぬ。」
 吐き捨てる信長に、再び、お市が跳んだ。
 「じゃあにいさま、その証がほしいの…!」
 息も吐かせぬほどの剣戟を繰り返しながら、お市は高らかに笑った。その拍子に、腰に括りつけた黄金の頭蓋が外れ、床を転がったことにも気付かない。お市は衝動のままに叫んだ。
 「さあ、にいさま!泣いて、哮えて、呻いて、叫んで!命乞いをしてみせて…!」
 お市の足元から闇が滲み出て、大きな手となる。信長はそれを切り払い、お市へ斬りかかった。交差、一閃。そして、静寂。やがて、信長が静かに口を開いた。
 「…それが貴様の欲するものか。」
 お市は答えない。信長は一息吐いてから、刀と銃を腰へ戻した。つう、と一筋の血が信長の胸元を伝った。
 「この世に安息の地など無し…ならば貴様が望む地を築き、その天を制するがよい。」
 決壊したように、血が溢れ出す。信長は血の塊を吐き、それでも、笑った。
 「化楽…第五天魔王…よ…。」
 仁王立ちのままゆらりと傾き、信長は前方へと崩れ落ちた。血が床板の筋に沿って広がっていく。しばしの間、お市は倒れた兄の側に立ち尽くしていた。ごうごうと焔が髪を焦がし、熱気が頬を炙った。
 「ふふ…ふふふふ…。」
 俯くお市の口から、低い笑い声が漏れ出た。お市は顔を上げて笑った。
 「はははは…はーっはっはっはっは!」
 天を仰ぎ、肩を震わせて笑うお市の肩で、長い髪が舞い上がっている。業火に照らされ生じた黒い大きな影は、魔物のように踊り狂っている。ながまささま、いち、がんばったよ。お市は笑った。もうこれでだれもいない、ながまささまのてきはみんなころしたよ。しかし、ふと止まる笑い。お市の頬を一筋の涙が流れ落ちた。ころしたよ。お市は兄の側にうずくまり、顔を覆って泣いた。違う、長政さまは市が殺すのを嫌ってた。悪だって。それで、市がそういうことをすると哀しそうだった。そうじゃない。だって、ながまささまはよろこんでた。がんばったなっていちをほめてくれた。にいさまのくびをとって、みんなみんな、じごくにおくったから。錯乱の中、お市はぼんやりとした眼差しを空へ向けた。…みんな、ころした?確かに、浅井も朝倉も武田も上杉も民も織田も濃姫も蘭丸も、そして、信長も、既に地獄だ。今は長政と共に在る。しかし。
 まだひとりのこってる…。
 「待って…市を置いていかないで…。」
 己の眼差しの中、お市は長政の幻を見出し、薙刀を手に取った。その背後では、業火に照らされた血塗れの黄金の頭蓋がてらてらと妖しい光を放っている。お市は幻に促されるまま、薙刀の切っ先を自身の首へ押し当てた。
 この世に安息の地などない。
 燃え落ちていく本能寺。炎の中、新しい魔王は飲み込まれていった。










初掲載 2009年5月17日