猿飛佐助


 太陽は遠慮がちに日差しを投げかけ、受けた新緑が緑色の光を降らせる。頬を撫でる微風はどこまでも優しく暖かい。
 だが、佐助が感じたのは間違うことなく寒気であった。
 完全にしてやられた状態だった。まさか、忍び込んだ小田原城で当主を囮に、侵入者を仕留める罠が展開されているなど、流石の佐助でも思わなかった。一歩間違えれば、北条という名はこの世から永遠に消え去ってしまうというのに、なかなか北条に仕える風魔とかいう忍はやるようである。辛うじて逃げ出しはしたものの、風魔が放ったクナイが穿った腹から大量の血が流れていた。血は佐助の指間からこぼれ落ち、地に円を描く。佐助は舌打ちをした。傷口から這い寄るのは、死の影だった。
 額に浮かんだ脂汗を拭うこともままならず、よろよろと蹌踉めきながら若木に手をつき、崩れ落ちるようにして根本へと腰を下ろした。吐く息はひたすら荒い。
 痛みと疲労にぼんやりと霞がかった思考で、佐助はそれでも痛み止め薬を取り出し飲み込んだ。
 ああ、俺様、死ぬのかな。
 生命力漲る初夏の森の直中で、佐助はゆっくりと瞼を閉じた。


 あれは、春先のことだった。


 協力、とは言い難い状態ではあったがひとまず手を組んだ織田豊臣勢に対し、今川は滅ぼされ、北条は屈した。両国が亡くなれば、次は武田に織田豊臣の手が伸びてくることは想像に難くない。武田の次は、上杉伊達勢であろう。
 事態を重く見た信玄は上杉に休戦を申し込み、上杉と同盟にあった伊達との間に、上杉を介した同盟を求めたのが去年の秋。そうして同盟状態になった伊達との打ち合わせを取り持つため、佐助が奥州を訪れたときのことである。
 此度は敵方の忍ではなく主の使いとして正門から入った佐助は、小十郎に導かれ、伊達が居るという庭へ案内された。
 庭では、佐助の仕える上田では既に散り始めていた桜がまばらに咲いていた。五分咲きである。改めて奥州が上田からほど遠い場所にあることを実感しながら視線をくゆらせると、目的の人物は池に寄り添うようにして一本植えられた満開の梅の根本に立っていた。根本、というよりは、陰にそっと立ちつくしていた、という表現の方があっているかもしれない。伊達の戦場では決して見かけることのない様子に、佐助は思わず目を見張らせた。伊達の二つ名は竜であり、鬼と評されるのは佐助の主である真田である。だが、悪鬼の形相で敵を斬り伏せる伊達は、決してこのように感傷的な背中を見せる男ではなかった。敵ながら天晴れ、と信玄も真田も讃えるような力強い背の持ち主だったはずだ。
 驚きに身じろいだ気から、佐助の存在を察したのであろう。いや、伊達は聡い男である。もしかしたら、最初から佐助が居たことなど気付いていたのかもしれない。
 「武田の忍が、何か用か?」
 振り向いた瞬間、既に伊達はいつも通りに戻っていた。それは、先ほどの弱々しい様はひょっとして自分の見間違いだったのではないか、と思わず佐助は自分を疑ってしまうほどだった。
 「大将からちょっと文をお届けしに。」
 「あーそうか…こんなところで立ち話もなんだ。それにどうせ返事を書かなきゃいけねえからな。ひとまず上がれ。」
 顎で示され、佐助はすみませんねーと軽口を叩きつつ応じた。
 視界の端で、梅の木の陰に何かが蹲っているのを認識しながら。


 筆を走らせる伊達の後ろで出された茶を頂きつつ、佐助は躊躇いがちに口を開いた。
 「ねえ、あの子、あのままで良いの?」
 自分が口を出す問題でもないとは思うのだが、いかんせん気になった。木陰に死にかけ蹲っていたアレは、猫ではなかったか。佐助が目にした伊達の様子が勘違いでなければ、おそらくあの猫は飼い猫なのだろう。だったら眺めたり、佐助の相手などしていないで、さっさと治療を施すなりするべきだと、佐助は思った。
 「…あれが、あれなりのprideなんだろ。俺が口に出す問題じゃねえ。」
 「ぷらいど?」
 耳慣れない異国の言葉を反芻すれば、伊達はしたためている書から視線も上げずに言った。
 「誇り、だ。あれも今は小康状態だからあそこに居るが、本当にやばいと感じたら、さっさと何処かに消えちまうだろうさ。猫だからな。」
 ふと、そういえば猫は死の瞬間を誰にも見せない、という話を佐助は思い出した。
 「それが誇り?」
 「あれなりのな。」
 「ふぅん。」
 気高いもの同士、伊達と猫の間には何処か通じるものがあるのだろう。佐助はそう判じ、それきり口を閉ざした。
 幾時過ぎただろう。
 佐助が疾うにその話題を忘れていた頃、伊達が面を上げ、庭へと視線を流した。つられて見れば、既に猫の姿はない。視線を戻せば、再び小さく丸まった伊達の背が目に映った。
 ああ、何だかんだ言っててもこの人は、今、悲しいんだ。
 誇り、という問題さえ横たわっていなければ、伊達は猫を手厚く葬っただろう。こんなときなんと声をかければ良いのかわからず、佐助は押し黙った。軽口ばかり出てくる癖に、肝心の時には慰めの言葉一つすら吐けない己に苛立ちが募った。聞こえない程度に溜息を吐く。
 「お前もああやって死んでくんだろうな。」
 本心からの言葉だったのだろう。それゆえ突拍子もなくこぼれ落ちた伊達の台詞はあまりに突然で、一瞬、佐助は何を言われたのかわからなかった。
 「お前って、俺?」
 問いに対する返答はない。佐助は、驚きと、不穏なことを言われた腹立ちと、不安とがない交ぜになった感情が沸いた事実に、自身のことながら困惑しつつ、言った。
 「そんな、俺が死ぬわけないじゃん。真田の旦那を置いてさ。」
 もう一度、自身に言い含めるようにして繰り返した。
 「死ぬわけないじゃん。」


 「あーあ。」
 佐助は浅い呼吸を繰り返しながら、立ち上がった。痛み止めが効いてきたらしく、痛みは鈍く、まるで他人事のように余所余所しかった。だが、決して深手が癒えたわけではない。佐助はその事実も重々承知していた。
 「くっ、そ」
 今ならわかる。伊達に放った言葉。あれは間違いだった。驕りだったのかもしれない。自分と、真田と、信玄。周囲に何があろうと、自分達だけは大丈夫だと、何処かで信じていた。
 「死ぬわけ、ない、はずないだろ、人間、なんだからっ。」
 過去の己を嗤い、佐助は一歩前へと踏み出した。
 「…でもっ死ぬわけには、いかないんだよ」
 かすがのように、主のために死をも恐れないのも、また一種の生き方ではあると思う。だが、佐助が求めたのは、主が生きている限り、陰で支え続けることだった。
 真田のために生き、真田のために死ぬ。
 「大体、今ここで倒れたら、旦那に、迷惑かけちゃうし。」
 北条で手に入れた情報が届けられないのは勿論のこと。人の良い真田のことだ。佐助の死など自分の目で確かめるまで信じず、十勇士に捜索を命じることだろう。真田の重荷になることが、佐助の望みではないのだ。
 「死ねないよ。」
 誇り。そのようなものは真田の前には塵に等しい。何より、忍としての本能が、佐助自身の誇りを喪失させた。
 真田に己の死に様を見せたいわけでは、決してないが。
 「死ねるわけ、ないじゃん。」
 歩き出した佐助の後には、点々と赤い標が残された。










初掲載 2006年9月8日