この時期になると城下町はいささか雑然とし、武士や商人を問わず、それは日々を生きるだけで精一杯の農民であっても、喜びに満ちた子らの声と安堵した両親の姿を耳目にすることが多くなる。
端午の節句が近付いているのだ。
無論伊達自身、未だ子を持たぬ身とはいえ、今後伊達を盛り立てることになるであろう子息たちが無事成長した事実を目にするのは嬉しい。子ども達が幼くして亡くなることなく、今こうして無事生きていることを祝う、そのための、節句なのだから。だが、伊達はこの端午の節句をどうしても素直に好ましく思えないだけの理由があるのだ。事情を知っている小十郎や成実は、伊達が機嫌を害さない程度に、節句の様子を見せまいとするのだが、それでも伊達は藩主である。部下の子息の成長を祝い、激励し、この人になら、と自身に心酔させねばならない時期でもあるのだ。当然、戦の合間のものではあるが、この時期、部下宅への訪問が多くなる。
今宵もそんな訳で訪れた邸宅で、伊達は酒を振る舞われた後、宛われた部屋へと引き返すところだった。
わざわざ伊達の訪問に空けたのかもしれない。伊達が宛われた部屋は庭に面しており、大きく取られた入口からは天上に差し掛かろうとしている月が良く見えた。伊達は粋を好む男である。伊達はそんな月の様子に大きく嘆息し、そのまま寝るのも無粋であろうと、座り込んだ布団からのそりと立ち上がると縁側へと腰を下ろした。
何処かからか、水音が聞こえた。
ゆるりと視線を動かせば、伊達の庭園に設えられたものほどではないものの、見事な池があった。脇にぽつぽつと生えるのは、菖蒲(あやめ)であろう。月明かりをひっそりと受け、菖蒲は塗れたように青く艶やかに輝いていた。
我知らず、伊達は小さく息を止めていた。
脳裏に過ぎったのは、遠い昔の、伊達の端午の節句のことであった。
まだ随分と幼かった当時の伊達は、今では考えられないことだが、年相応の少年だった。また美しい見目は母似であったが、気性は父に似たのであろう。あの頃の伊達は穏やかで、いささか公家気質だった。伊達の母である義姫は、気性の荒いことで有名な姫武者である。誰もが伊達は父に似たのだと思い込み、また両親も思い違えていた。
違えていた。
いや、事実あの頃の伊達は、それが本当の姿だったのだ。従って周囲は違えていたのではなく、伊達も欺いていたわけではなかった。では何が伊達を今の性格に変えたのか。
伊達を変えたのは、痘瘡だった。痘瘡は幼い伊達の右目だけを、謀ったように奪い去っていった。昼夜を問わず熱に浮かされ、よくぞ右目だけで済んだものと、子の親としては喜ぶべきだったのかもしれない。命ばかりは助かったのだから。だが、伊達は伊達家の跡取りだった。時は戦国。両目ですら天を睨むには足らぬほどであるのに、片目の視界でどれほどのことが出来ようか。
それ以来、義姫は伊達の元に姿を見せなくなった。
実家最上家の策略、伊達家の戦略。また己に良く似た面が疵を負ったことが許せぬこともあったのだろう。幼いながら、生来賢かった伊達は母の心中を察し、不安に苛まれる心を押さえつけ、母を呼ぶのを我慢した。幾日か後、掌を返したように弟小次郎を可愛がり始めたと耳にした。それでも、伊達は何故母が見舞いに来ないのかも、何故弟に寵愛が移ったのかも、尋ねることはしなかった。ただ、布団を握りしめ、耐えた。
そんな伊達の健気な様子を目にしていたのは、すでにこの頃小姓として伊達に侍っていた小十郎と伊達の従兄弟の成実である。当時の二人が何を想っていたのか。伊達に知ることは出来ないが、心配をかけていたことだけは知っていた。
伊達を既に見限った義姫は実家の計略に従い、小次郎を傀儡として跡取りにしようと画策し始めていた。父は一見凡庸ながらも、そんな妻の反逆に対抗するため、伊達を必死に指示した。
両親の不和は、すぐさま当事者である伊達の元へも伝播した。
天上では太陽が照っていた。庭園の池はきらきらを光を反射し、緑に揺れていた。
「梵天、」
名を呼ばれ、身体の病から気落ちし伏せっていた伊達は、療養のための邸に珍しい人物が訪れたのを知った。
「母上」
久しぶりに見た母は唇に差した紅を左右に釣り上げ、笑った。
「これへ。」
母の後ろに侍った侍女が、躊躇うように眉根を寄せた。摘み取ったばかりであろう、青々と瑞々しく濡れた菖蒲を両手一杯抱えていた。そういえば、伊達はすっかり忘れていたが、今日は端午の節句である。あれは見舞いも兼ねた、祝いの花であろうか。だが、それにしては侍女の表情が優れない。
「これへ!」
気を高ぶらせた母が叫び、処罰を恐れた侍女が、それでも躊躇いながら花を義姫に渡した。満足そうに母が笑い、伊達へと菖蒲を差し出してくる。有無も言わさぬ迫力に、半ば気圧されるようにして伊達は菖蒲を手に取った。
「そうじゃ、それで良い。」
声を立てて、母は笑った。
「ああ、梵天。私の梵天や。なぜそのように妾の邪魔ばかりするのか。主なぞその花の冠する通り「殺め」られてしまえば良いのに!」
その後のことは、あまり記憶にない。
実母に死んでしまえば良いと言われた衝撃からだろうか。
いや、伊達も薄々察してはいたのだ。母の心が既に伊達にないことなど。ただ、温厚を旨とする小十郎が珍しく激怒する声と、気が狂ったような母の笑い声とが耳に届いた気がした。
あれ以来、端午の節句も菖蒲も好きではない。いつだったか、菖蒲の花言葉が「憤慨」であると知ってから、更にこの花が嫌いになった。だが、これだけのことがあってなお、一番胸を痛めているのは伊達ではない。痛みすぎた心は疾うに膿み、爛れ落ちてしまった。今更母の情を求めることもなければ、縋ることも由としない。伊達はそういう息子になった。だからこの季節が近付くたびに顔を顰めるのは、伊達を第一に考えている小十郎や成実なのである。
庭の菖蒲は根こそぎ刈られ、母の姿を目にすることは年に数度もない。端午の祝いも必要最低限、部下の邸宅を訪れる程度である。
伊達自身としては、別段、幼少の頃の話をいつまでも胸に留めておくほど自分は感傷的でも、また弱くもないとは思う。
それでもこの時期になると、あの日の出来事を思い出して、伊達は胸に何かが支えたような、それでいて何かぽっかりと穴が空いたような気持ちにさせられるのであるのだ。
そう、特に、こんな風に菖蒲が瑞々しく濡れたように光るときには。
初掲載 2006年9月4日