奥州から出てきた政宗は、一人裏通りを歩いていた。本来であれば、高い地位にある政宗が供も連れず一人で歩いているような場所ではない。海を埋め立てた土地柄か、潮の香りがかすかに漂っていた。何処からか猫の鳴き声がする。海猫のものだろうか。
十年前に家康が入場した江戸は、今年から正式に幕府が置かれることとなった。十年とは随分昔のことだ。政宗は小さく笑う。あの頃政宗はまだ若く、天下を目指し野望に燃えていた。
(…そう。まだ、若かった。)
目的の裏店を見つけ、政宗は回想を打ち切り足を止めた。乾いた木で建造された家は、政宗の目には吹けば飛びそうなほど脆く映った。木目の荒い壁には、滲んだような黒い染みが浮き出ている。かびかもしれない。
(本当に、ここにいるのか?)
周囲に、人の気配はなかった。確かに政宗は常人よりは気配に敏いが、それでも名うての忍ともなれば、政宗如きに気配を悟られるようなへまもしない。だが、名目上のことであれど、ただ奥州から幕府設立の祝いに参内した政宗に、てだれの忍を徳川は宛がうだろうか。
(NO、だ。)
服部半蔵の死後、すっかり徳川における忍の地位は失墜していた。いや、徳川だけではない。戦乱の世がすぎ、太平に至る現在、忍はその存在を抹消されようとしている。
しかし、油断は禁物である。今の伊達の立場は決してよいものではない。今まであまりにも危険な橋を渡りすぎた。
それゆえに、徳川に動きを悟られないよう密かに探らせていた。
政宗は躊躇いがちに、店の扉に手を近づけた。探らせた黒はばきを、政宗は信用していた。もたらされたこの情報に、きっと、間違いはないだろう。
(じゃあ、このもたげる不安はなんだ。)
戸を叩くため手を緩く握り締めた、そのとき、戸がうちから開けられた。政宗は息を飲んだ。更に強くなる、不安の気配。
そこには、小田原攻め以来探し続けていた小太郎の姿があった。
密集して建てられているためか、招き入れられた店の中は路地以上に薄暗かった。窓は日と逆向きに設けられてるため、換気の役目しかなしていない。僅かに水の張られたかめに、木製の流し台。行灯には菜種油だけでなく魚油が混ぜられている粗悪な油を使用しているのか、灯していないにもかかわらず、部屋には異臭が篭っていた。
簡単に店を見回した政宗は、小太郎に向き直った。長い前髪に覆われた顔も、沈黙も変わりはない。ただ着物の裾から覘く筋張った腕に、長い歳月が流れたことを思い知らされた。まだ若かったあの頃とは、違うのだ。
後ろ手に戸が閉じられ、光源がなくなる。僅かに隙間から漏れる光の筋に、ちらちらと埃が待っているのが見えた。漆黒に満ちた部屋の中で、小太郎の気配が身じろぐ。政宗が供も連れず訪れた用件を、知りたいのだろう。
政宗は緊張に乾く唇を舌先で湿らせ、小太郎に告げた。
「高坂甚内を知ってるか。武田の忍だった者だ。」
小太郎は答えない。暗闇の中では元々感情の乏しい顔を窺うこともできない。そうでなくても、小太郎は長い前髪でその表情すらも隠している。政宗は小太郎がいるであろう暗闇を見詰め、言葉を続けた。
「…そいつがお前の情報を徳川に売ったそうだ。」
なぜ、小太郎は盗賊などに身をやつしたのだろう。孤高の、気高かったあの姿を消し、徒党など組んで。その問いは常に政宗の念頭にあった。忍を排除しようとしている時代が悪いのか、北条を滅ぼし踏み台にした太平が憎いのか。政宗にはわからない。
傷つけられた獣のような目をする、小太郎が好きだった。
「今ならまだ、間に合う。…伊達に、来い。俺ならお前を匿える。」
そんな目をする小太郎のことを同類だと、政宗は思っていたのかもしれない。ただ、会いたかった。欲しかった。まだ若かったあの頃の想いが、ここまで、政宗を走らせた。
差し出した政宗の手は、光の筋の中に橙色に浮かび上がった。いつの間にか、西日が差している。
じわりと上へ上へと伸び上がっていく光の筋が、小太郎の面を照らした。長い、沈黙。この店に来ることを決めてからずっともたげていた不安が、夕日のもたらす光とともに大きくなっていく。
政宗の視線の先で、ゆるく小太郎が首を振った。上下であれば嬉しかった。首は、左右に振られていた。
(…来る前から、わかってたんだ。本当は。)
政宗は笑みを浮かべ、力なく手を下ろした。
(わかってた。)
北条以外に小太郎が仕えることはないことを、政宗は心のどこかで気づいていた。そして、小太郎が北条に殉じ、時代から消えるつもりでいることも。
(主と共に生き、…主と共に…、)
俯く政宗の頬に、小太郎の無骨な指先が触れた。あの頃とは違う、節くれた指は小太郎と離れていた歳月を否応なしに政宗に知らしめるものであった。
(…お前は、俺の前から真実消えるのか…小太郎。)
触れる指先が、これほどまでに優しさに満ちたものでなければ良かった。政宗は強く目を瞑った。
それが、忍という生き物であることを、政宗は知っていた。
初掲載 2007年7月23日