triumphus ――凱旋


 光秀が奥州で台頭し始めた伊達家に使者として送られたのは、三月前のことである。使者と言えば聞こえは良いが、実質は信長から伊達家の内情を探り、あわよくば絶やすよう命じられてのことだった。騒乱たる夏を厭う光秀は、これも一種の避暑と受け止めて奥州へ向かった。伴いは、信長が妻、濃姫である。濃姫は実の子の如く可愛がっている蘭丸の手を引いて、伊達の相手を光秀へ任せると、農民の一揆制圧へと向かった。
 意外なことに、織田からの使者を受け入れた伊達当主政宗は、本物、だった。光秀の一見突飛な言動にも惑わされることなく、その根底に流れるものを読み取ったらしく、微かな笑みを湛えたままの光秀に異国の絵札を見せびらかした。この頃の人間に漏れず、光秀も多分に占いというものを気にする傾向にあったので、これも興と捉えて、政宗の説明を聞き入った。
 政宗によれば、彼の提示する絵札はそれぞれ数字と意味を持っているらしい。そして、意味とは、絵札の上下によって逆転するらしく、政宗はそれぞれの絵札の正位置、逆位置、双方について奇妙な笑みを湛えて説明を施していった。
 初めに提示されたのは、逆さまのうつけの絵札だった。
 「0…全ての始まり。愚者。落ちこぼれ、我侭。」
 うつけを正位置に返して、政宗が続ける。
 「転じて、自由、型にはまらぬ天才。」
 そして再度、何を思ったのかうつけの絵札を逆さまにして、政宗が皮肉そうに口端を歪めた。
 「軽率。」
 それを中心に据えた政宗は、愚者の隣に女王と子供の描かれた絵札二枚を配する。
 「3、女帝。繁栄、豊穣、母権、家庭の形成。 19、太陽。誕生、祝福、成功、約束された将来。」
 再び、上下を返された絵札の隣から、政宗はうつけの絵札を取り除いた。
 「転じて、虚栄心、怠惰、…軽率、挫折。 そして、落胆、不調、衰退。」
 ちらと向けられた鋭い目は、光秀の心のうちを見透かしているようだ。政宗の意図を汲んだ光秀は、漏れそうになる笑い声を堪えた。
 「13、死神。死の行軍の長。破滅、離散、死の予感、終末。」
 今度は絵札を返さぬまま、政宗が次の絵札を女王らの傍に置いた後、少し離れた場所…西へと配した。
 「4、皇帝。支配、成就、安定、責任感の強さ。転じて、未熟、横暴、傲岸不遜。」
 沈黙が漂った。政宗は思うところがあるのか、次の絵札を置くでもなく、じっと皇帝を睨みつけている。光秀も愚かではない。豊臣の手によって、竜の右目が負傷したことは知っている。やはりこれは、絵札に意味を含ませることで、織田を虚仮下ろしているのだ。はたして、次はどの札が出るのだろう。内心面白がって挙動を伺う光秀の前で、ふっとその場の空気が緩んだかと思うと、政宗が吹き出し、腹を抱えて年相応に笑い出した。光秀は興を削がれた思いで、政宗を見つめた。
 「…遊びにしては、些か、挑発的ですね。」
 思わず吐いて出た光秀の文句に、政宗がぎらりと眼を輝かせる。
 「ha?何がだよ?単に俺はtarotの説明をしてただけだぜ。You see?」
 何処までも織田を煽り嘲りながら、何処までも他意はないと釘を刺す政宗に、光秀は嘆息した。しかし、同時に面白くもあった。独眼竜と称される若者は、いまだ肩を震わせて笑っている。避暑と割り切ってやって来た辺境に思いもかけない逸材を見つけることが出来た、魔王に感謝せねば、というのが光秀の本心だった。
 政宗はひとしきり笑い声をあげてから、ようやく気の済んだ様子で、一枚の絵札を光秀へ放った。
 「あんたの眼は他の奴らとは違う。暴威を振るう魔王のオッサンとも、覇王を気取る秀吉とも、死に狂った姫さんとも異なる…意味のわかんねえ眼だ。」
 その意味は説明されなかったが、先見の才のある奥州の雄が光秀に含むところを示すには、それだけで十分な説得力を持っていた。光秀は嫌に分別臭い、しかし僅かな侮蔑の浮かぶ眼で政宗を一瞥した。
 「貴方が織田と対峙するのは、これが、初めてのはずですが…?」
 「悪ィな、俺の耳はあちこちにあるんだ。世は戦乱だぜ、常識だろ?」
 そうして政宗は、光秀の手にその札を握らせた。――眼に暗い情熱を浮かべ、剣を手にしている魔物の絵札を。





 頭上一面に広がる空は、古井戸の底に似ていた。てらてらと照り返る朱は、水面に日差しが反射した如き様相だ。舞い散る灰燼が、底へと吸い込まれていく。光秀は天を見上げ、くつくつと肩を震わせて笑った。
 「ああ、楽しい…。何と楽しいのでしょう。」
 ひとしきり体を震わせて笑い声を立てた後、光秀は底へ落としていた視線を周囲へと向けた。
 井戸の外には、絢爛たる惨劇が広がっていた。焔に照らされた屍の纏う鎧兜は、ぎらぎらと肌を刺す太陽の如く黄金に輝いている。血を吸い黒ずんだ地面と乾いた箇所との対比は、陽の強さに比例して濃くなる影のようだ。そして、何処も彼処も、水打ち後の如き有様だった。杓で掬われた血を撒かれ、むっとするほどの鉄錆びの匂いが陽炎となり立ち上っている。
 「まだ足りない。ああ…もっと楽しみたい…。」
 光秀は瞼を伏せて頭を振ると、やがて至極楽しそうに、虚ろなその眼を輝かせた。
 「死んでしまったものは仕方ありません。…さあ、次は何処へ向かいましょうか。」
 ふと、光秀の脳裏にかつて政宗と交わした言葉が甦った。


 『ならば、貴方はどの絵札だというのです?』
 『Idiot!絵札如きでこの俺を捉え切れるはずもねえ。You see?』


 光秀が天下人の座を狙う雄を殺せば殺すだけ、日ノ本は天下統一へと向かう。皮肉な話ではないか。魔王の血に塗れた鎌を見下ろし、光秀は微かな笑みを浮かべると、ふらふら歩き出した。
 「井戸の蛙か、眠れる龍か…。――前座で終わる…それもまた一興。」










初掲載 2009年7月19日