「願いを一つ叶えてやるよ。」
桜の枝から剥がれ落ち、水に濡れた花弁が溶けて、泥のようなそれと土の間に見える根を見ていたときのことでした。ふと零されたその言葉に私は数回瞬きをして、脇に立つ独眼竜に目を向けました。彼は酷く詰まらなさそうな、それでいながら、さぞ面白いことを思いついたという風な顔でにやにやと私を見つめていました。
「どうしたんですか。貴方らしくもない。」
「あんたに来てくれるサンタクロースなんざいねえだろ?代わりに俺が叶えてやるよ。」
「失礼ですね。」
独眼竜の言う異人の名などわかりません。しかし、悪くない話かもしれないとも私は思いました。少なくとも、私が何か損をすることはないように思えます。私は首を傾げて、では、と言いました。
「では貴方を殺させてください。」
「それは駄目だ。」
天下もやらない、と独眼竜はからりと笑いました。まるで子供のような屈託な笑みです。それに私は興をそがれて、物憂げに溜め息をこぼすと肩を竦めました。
「独眼竜ともあろうものが、けちですね。」
せめて、戦場で見せるようなあの殺意に満ちた瞳であったら。しかし、目の前の独眼竜はただの闊達な若者です。詰まらないと胸中で呟き、私は足元を見ました。黒っぽく水気を帯びた腐葉土は、何によって生まれたのでしょう。木や草や葉が重なり合い、ゆっくり時間をかけて腐っていく。そうした場合もあるでしょう。しかし、更にその下――私はふっと、桜の木の下には死体が眠っているという夢物語を思い出し、ああ、と顔を上げました。
「では、貴方の傍で死なせてください。それくらいなら、出来るでしょう?」
そうして私がにっこり微笑むと、独眼竜は可笑しそうに笑い、「Ok.」とあの異国語で答えたのでした。それは本当に心の底から可笑しそうな顔で、私もつられて笑いました。
本当に、殺したいと思っていたのです。そしてそれくらい、独眼竜を傷付けたくないとも、守りたいとも思っていました。更には、その腕で死ねたらとも思っていたのです。私はそれが矛盾だと承知していたので、ただ浮かれたように復唱しました。
「貴方の傍で死なせてください。――約束ですよ。」
確かに私は浮かれていました。それは紛うことなく、熱望でした。
あれからどれくらいのときが経ったのでしょう。一月も経ってはいないはずです。
暗い井戸の底のような空を炎が明るく染めていました。頬を撫でる風は髪を焦がし、そのまま、爆ぜる音を立てて寺を呑み込んでいきました。小さく音を立てて、次いで大きな轟音と共に崩壊は始まりました。柱が崩れ、瓦がこぼれます。こぼれたそれが地に打つかって、騒々しい音を上げました。
独眼竜、貴方には信長公の断末魔の悲鳴は聞こえましたか。私には聞こえませんでした。信長公は高らかに、燃えさかる炎の中で笑っていました。まるで死を恐れない蝉の音のようなそれは風に紛れず、真っ直ぐに私の元へ届きました。最期に、彼は笑ったのです。
その光景に、ある部下は地獄のようだと洩らしました。現世に地獄というものがあるなら、それはこれに違いないというのです。それを私は違うと思いました。これが地獄であるならば、これほどまでに美しいはずがありません。
それとも、地獄はかように美しいものなのでしょうか。
信長公は結局自刃を選びました。彼に止めをさせなかったことが残念でなりません。
*
魔王のおっさんが死んだという話は、すぐ俺の元にも届いた。話を届けてくれたのは、おっさんと敵対している本願寺の生き残りだった。やつらは天罰だと喚きたて、同時に、あんたのことは援けられないのだと言った。業は巡る。謀反なんぞ起こしたあんたは、生きるに値しないって話だ。
俺は煙管に火を点しながら、そんなものかと思っていた。そうだとするならば、父を殺し、弟を斬り、母を追いやった俺は何処に行くんだ。
「何処で、魔王のおっさんの弔い合戦は行なわれるんだ?」
「山崎でしょうな。」
したり顔で言い切る坊主に僅かばかりの金子を持たせて、俺は訃報を待つことにした。あんたのことは終わったものだと、俺は忘れることにしたのだ。
西に比べれば遅咲の桜もすでに散っていた。散り際に、あんたとここで会話をした。その後、あんたは魔王の嫁さんに一揆を任せて一人さっさと国許へ帰ると、本能寺を焼き討ちにしたのだ。
「あんたらしい凶行だったな。」
「ふふふ。褒めてもらえるとは思いませんでしたよ。」
どうやら、あの坊主は使えないやつだったらしい。樹の根元に座り込んだあんたに、俺は返した。
「褒めちゃいねえよ。」
実際、冗談でも何でもない。褒めたつもりもなかったが、頭を頼りなく垂らしたまま、あんたは肩を揺らして笑った。合戦着だ。訪問着にしちゃなってねえんじゃねえのと茶化す間もなく、あんたは小さな声で呟いた。
「あのときの約束を覚えていますか?」
もっと自信満々の声で言えよ。あんたらしくもない。不安なんて、似つかわしくない。あんたが押さえる腹の傷からは、とっくに致死量の血が流れ出ている。乾いて黒く固まった破片が赤い鮮血に濡れている様に俺は一瞥を投げかけ、眉をひそめて溜め息をこぼした。あれからまだ二月ほどだ。覚えていない方が珍しい。そう正直に答えると、あんたは嬉しそうに笑った。いつもの何考えてんのかわからない類だが、飛んでるとはいえ、本当に嬉しそうな笑みだった。
「あんたさ、それだけのためにここまで来たのかよ。」
膝を落として問うと、さも当然という風にあんたは頷いた。
「勿論。」
その返事に、あんたは馬鹿だと小さくぼやいて、俺は佩いた脇差を抜き取った。奥州にもようやく訪れた夏の陽光に、白刃が鈍く光を放つ。その光景に、あんたは目を眇めた。
「綺麗ですね。――さあ、お願いします。独眼竜。」
俺は嘆息した。
「ありがとうございます。」
あんたは馬鹿だった。大馬鹿者だ。あんたは言えば良かったんだ。ありがとうございますなんて言葉じゃなくて、貴方の傍で死なせてくださいなんて願いじゃなくて、もう一度だけ言えば良かったんだ。
一緒に死んでくださいと、そうあんたは言えば良かったんだ。馬鹿が。
白刃が煌いた。
最期の瞬間、あんたは笑った。
初掲載 2007年12月20日
Beautiful world / 宇多田ひかる